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偏平足 [父の話]

2019.7.11


こんばんは。

今日は一日仕事の仕上げで家にこもったまま。家人と私は食事以外はパソコンに座ったまま。

これでは体にはよいはずもないが、どう頑張っても1つの仕事を仕上げるのに1週間はかかる。お金をいただくということは、それなりに時間と体力を使う。生きていくためには仕方のないことだか、その過程で生き甲斐とか、やり甲斐とか、達成感を味わえるわけで、仕事は本でも、テレビでも教えてくれない大切な何かを教えてくれる。お金をもらった上に自分を成長させてくれるのだから、ありがたいと思わなければいけない。でも、若いときはそんなことを理解しろと言っても分かるはずがない。それが分かるのが老人。分からないのが若人というものだ。


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御老人お決まりの昼ドラ「やすらぎの里」を見ている。そこで戦争の話が出てきた。

皆本心では戦争に行きたくはない。それは昔も今も同じことだ。明日、零戦に乗って出撃しろと言われたら、身震いがする。ジェットコースターに乗るのだって躊躇する私としては、360度回ることに耐えられるわけもない。操縦桿を握って、360度回転し、敵からの銃撃をも交わしながら意識をはっきりと持ってい続けることなど想像すらできるわけがない。

自分が今ここにいることは、あなたが、私が、彼が、彼女が、そして誰もが思うように奇跡に近いことかもしれない。

実は、私の父は偏平足だった。

今の若者にそんなことを言ったところで、何?それどういう意味?全然意味わからな~~いと軽く言われてしまいそうだ。それに「今ここに自分がいること」と「偏平足」がどうつながるのかわかるわけないじゃん。

確かにそのとおり。全然脈絡がない・・・・・・・・・いや、そうじゃないんだ。

偏平足=疲れやすい/長い距離を歩けない/歩兵に向いていない=入隊検査不合格。

・・・・・・・となるのが一般的であったそうだ。私もなぜ疲れやすいのかとか、どの程度土踏まずがないと偏平足なのかはよくわからないので、これ以上はわからない。全くの受け売りだ。

つまり、大正3年(1914年)生まれの父は、終戦時30歳前後であったわけで、当然徴兵の対象だったはず。しかし、彼は戦争には行っていない。肩身の狭い思いをしたと一言も言ってはいなかったが、何となく感じるものがあった。

そう。彼が戦争に行っていないということで、私は生まれてくることができたと言っても言い過ぎではないだろう。終戦2~3年前に二十代後半の人間は、真っ先に赤紙の対象になったはず。

体の小さい、無骨な、不器用な人間は戦場では生き残ることは難しかろう。父が死んでしまっていれば、私は生きているわけはなく、ここでこんなブログを書いていることすらない。

当時、徴兵逃れのため、醤油をがぶ飲みして逃れたとか、いろいろ逃れる手立てを考える人たちがいたそうだが、体の欠点での徴兵検査不合格は致し方はないこと。父は肩身が狭かったろうが、私としては生まれてこれたわけで、大変にラッキーなことであったと思っている。


そういう私も偏平足だ。もう徴兵検査の対象にはなる年齢でもないが、仮に対象となったとしても偏平足で却下されることは間違いない。非国民と呼ばれようとも、堂々と喜んで生きてやる。

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早13年が過ぎた [父の話]

2018.8.26


あっ~~~ついね。


空気を吸うと生暖かいものが胃に入ってきて気分が滅入る。

蒸し風呂を当に越して室の中にいるようだ。


さっきスーパーに行ったけど、「赤城しぐれ」に代表されるかき氷類は全くなくなって、やっとのこと、フリーザーの奥深くにガリガリ君を見つけて買ってきた。



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20年患った父が93歳で亡くなって、早13年が経ってしまった。

一応、13回忌ということで法要を行った。愚息が大阪から来たついでということで、この暑い中行った。我等一家と姉が嫁いだ一家の総勢14名。


世話になっている和尚は東京にいるので、東京のお寺で法要を行った。お坊様にはそこでお別れをいただき、私たち近親者だけで墓に行き、一席を設けて帰ってきた。


私の姉が「ついでだから飛行機を見たい」と言ってきたので、飛行機を見えるホテルということになった。ネットではかなり評判は悪く、こんな名前のホテルがあったんだと思わせるホテルであったが、飛行場のすぐ脇であり、姉上様のご所望ならとそこを渋々予約した。




評判どおりのホテルであった。



ネットではアメニティセットが置いていないとクレームが載っていた。この方は飛ぶはずであった飛行機が飛ばずに、航空会社から手配されたホテルが、そのホテルであったと書いてあった。


深夜に事は起こったらしく・・・・。

投稿者「歯ブラシが部屋にないけど」 

ホテル「当ホテルにはアメニティセットは置いておりません」

投稿者「じゃ、近くにコンビニはあるの」

ホテル「近くにはありませんね。一階にありますが、閉まっておりますので・・・・」

投稿者「じゃ、開けてくれないかな」

という問答があって、やっと開けてくれたとか。


そんなホテルなので、事前にランチの下見。1か月前に予約、料理の打ち合わせは手抜かりなく行っておいた。


【打ち合わせ時のこと】

私「このコース、1品を別のものに変えてもらえるかな」

担当者「原則、この3つのコースのみになります」

私「昼にランチがおいしかったから、肉のパテじゃなくて、サラダにしてほしいと思ったんだけどね」

担当者「少々お待ちいただけますか、担当の者と相談してみます」
と言って、2週間ほど経過しても返事がない。
【雑談でお願いをしてみた】
私「ホテルにプールがあるようだけど、それに入れないかな」
担当者「はい、プールは宿泊者だけとなっておりまして・・・」(食事のみの方は利用できない)とのこと。
私「あっ、そう。じゃ、いいや」
私(「我々だけのためにプールに水を張るわけじゃない。既に水は張ってあるわけだし、ただで使わせろと言っているわけではないから、使用料を払うから使わせろ」)と心の叫び。


ということで飛行機が間近で見られることがなければ、とっくの昔にキャンセルをしていたホテルであった。今どき、非常に珍しい、客を客とも見ない大仰な商売をするホテルであった。


じゃ、誰をターゲットに商売をしているんだろうという疑問。

法事の当日、支払いのためカウンターに行ってみると、やはり外国人ばかり。特に中国人ばかりがうようよしていた。


法要という節目柄、腹は立てず、見るものは見ず、ただただ淡々と事を進め、無事終了と相成った。



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13回忌 [父の話]

2018.7.28


こんにちは。

台風が近づいている。間断なく雨は降り続け、今は激しさを増している。夏の雨は湿気を呼ぶ。ちょっと居眠りをしようものなら汗だくだ。今回は関東地方、我在住の千葉に近いところを通り西に向かう。

普通、台風は西から東に向かう。古今東西、古の昔から自然現象はそうなっている。ドラゴンボールのベジータがあらわれない限り、それを逆らって進むわけがない。それが自然現象というものだ。


ところが、今回は地球の自転に逆らって進むタイフーン。やはり異常気象そのものだ。


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今年9月で亡き父の13回忌となる。

 

平成18年没だから、正確には丸12年となった。人間は生きている以上、いつかは死ぬ。

いつかは死ぬのだけれど、若いころはそんなことは全く考えないのは、あなたも私も皆同じ。


幸いにして、それはとてもいいことだ。


何でも前向きに考えられる。将来はああなろう、こうなろうと思いを巡らせる。

十人十色というが、人は皆それぞれの環境の中で、それぞれの夢と希望を持ち歩き続ける。それが叶う人もいれば、叶わぬ人もいる。それも十人十色だ。


夢と希望が叶う人も叶わぬ人も、その人だけの力ではあり得ない。誰か周りの人間の手助けがある。それを「巡り合い」というが、巡り合いがよい人も悪い人もいる。それもまた十人十色だ。


あるとき、銀座の千疋屋の店先に立った。その店は今もあるが、銀座四丁目から2ブロックだけ有楽町寄りのところにある。歩道からすぐ商品が並ぶ風景は、ちょうど町の八百屋さんみたいな雰囲気があった。店には多くの客がいた。


いきなり、店の奥からグレーの背広を来た紳士が店の外に出て来た。そっと私の横に立ったその紳士はいんぎんに胸ポケットから何かを出した。


紳士「私、山田と申します」


その名刺は私の目の前を通り過ぎ、父の前に差し出された。

私たちは彼を呼んだ覚えもない。ただ、店の前に立っただけだ。

その名刺には、「千疋屋・・・」と書いてあった。


もちろん、千疋屋でメロンを買い求めに来たのだが、たった2~3秒、店の前に立っただけであった。


これは前にも書いたと思うが、別に自慢話でも何でもない。その紳士は「上客」だと思ったのだろうか、失礼があってはいけないとでも思ったのであろうか。


私は父に聞いた。

「前に来たことあるの?」

父「いや、初めてだ


父はチビでデブで、お世辞にも決してダンディーとは言えるような外見ではなかった。

悔しいことに、年齢とキャリアを重ねることによる威厳が備わっていた。


私はとうに父の年齢を過ぎた


千疋屋の店頭に立っても誰も歩み寄ってはこない悔しさを、13年目にしてまた思い出してしまった

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桜を見ていたら、ふっと思い出した [父の話]

2018.3.29


崎陽軒の弁当は結構好きだ。

経木の香りが白米に付いていて、とても食欲をそそられる。


今日は二人とも仕事で出ていたので、夕食は崎陽軒を買って帰ってきた。


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その道すがら、2キロ近く桜並木が続く


いつもこの時期は、少しだけ遠回りしてその桜街道を通ることにしている


例年、仕事でしか通ることのない道路で、桜の開花と仕事の日がピッタリ合うことは滅多にない。早過ぎることはないが、遅過ぎることのほうが多かった


しかし、今年はピッタリだ。まさに満開、明日、明後日になればチラホラと散り始めるであろうか。


そんな桜街道を走った。


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最後の花見をしよう。急に思い立った。


風もなく、穏やかで、日の光もまぶしく輝いている午後であった。


我が家から歩いて5分ほどで、その立派な桜の木がある公園にたどり着く。


桜の木は4本。公園横の小さな土手沿いとブランコの後ろにあった。


樹齢はもう50年は過ぎているであろうか


当時、私は大学1年。やっと自分の家(部屋)が持てるうれしさで、この辺鄙な田舎町に住むこととなった。

その当時、この界隈はほとんど家がなく、この分譲地もほとんどが整地されてはいたが、家は建っていなかった。


宅地開発と同時に公園もつくられ、そこに桜の苗木が植えられたいたのだと思う。当時は、桜が植えてあることすらわからず、ただ寒々しい風があたり一面吹きさらされているだけであった。


それが大木となって目の前に意識され始めたのは、15年ぐらい前からであろうか。いつもきれいに咲いてくれ、周りの人たちの憩いの場となっていた。


彼は少し照れているのか。恥ずかしそうにして家を出た


ゆっくりと車椅子を押して歩く。


きっとこれが最後の桜だろうという予感をもって、私と彼は静かに公園に向かっていった。お互い、何もしゃべらなかった。


公園の桜は満開で、少しばかりの強い風とともに、少しばかりの桜の花びらが彼の髪の毛にとまった。


彼は眩しそうに空を見上げた。


「きれいだね・・・、スゴイね・・・」


そのとき、自分にできることといったら、車椅子を押すこと、そのぐらいが精一杯であった。




私たちの予感は残念ながら的中した。その年の秋、桜の花びらのように、彼は私の指の間からこぼれ落ちていった。


介護生活20年のうち、見守り10年、半身付随7年、寝たきり3年、93歳の長い人生だった。

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大失態をした [父の話]

2017.9.29


すごいいい天気だ。仕事はまだ終わらない。でも・・・・・。




忘れていた。直近まで覚えていたのだけれど、11年目の大失態だ。

それも夫婦二人で忘れていたのだから、どうしようもない。


何のことだ?


親父の命日。11年前の9月28日に彼は亡くなった。2回の梗塞を患い93歳で亡くなった

私と違い、人の悪口を言う人ではなかった。
小学校しか出ていなかったのに、なぜか人望は厚く、物知りであった。


寿命と言えば寿命だが、彼としては屈辱の日々を20年近く過ごした。

最後まで意識はしっかりとし、私たちの私的(暗中模索的)な介護に文句も言わずに付き合ってくれた





今は情報も多く、何でもレンタルでき、経済的にも精神的にも負担はかなり軽減されつつあるが、当時は車椅子も、介護事業所も、訪問入浴も、訪問医もすべて自分で調達しなければならず、ケアマネもいたにはいたが、介護申請のときに顔をみせたぐらいで、その存在すら意識したことはなく全く役に立ってはいなかった


11年前もいい天気で、蒸し暑い日が続いていたが、家人がポジテシィブな性格ということもあり、二人で楽しく介護をしていたし、来客も多く、お茶会をよくしていた。


そんな二人を見てか、先生からは「いつ行っても不思議はありませんよ。覚悟はしておいてください」と釘を刺されたりしたのを思い出す。




そして、彼の時間は止まった




過ぎ行く時は早く、無情にも思い出を置き去った



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最後の父の話(5) [父の話]

2016.7.12 

93歳、彼の長い闘病生活は幕を閉じた。

ほぼ20年近い闘病生活に別れを告げられたことは、彼にとっては安堵以外の何ものでもなかったんではないかと思いたい。私も、それによって看病生活から開放されたことになった。しかし、あくまても母親のサポートであり、正直、安堵というよりも、やはり残念という気持ちが強かったかもしれない。

最後の1か月は、我が家で看取るととした。病院に入院はしたものの、その看護体制に怒りを覚え、自宅に引き取ることにした。医者は、「家で診るのは、大変だよ。病院にいたほうがいいんだけど・・・」と言いながら父を診ることもなく長い廊下を歩いていった。

退院後、訪問医を頼んだ。

幸いなことによく面倒を見て、適切なアドバイスをしていただける先生であった。

女医さんであったけれど、診療所を開設したばかりでもあり一生懸命さがこちらにも伝わった。

おむつ交換、入浴、タン吸引、栄養剤の鼻からの挿入、褥瘡の手当等々、いろいろなことを教わって、我々を引っ張っていってくれた。私たちも、緊張感をもって楽しく介護ができた

父は節食嚥下もうまくできなかったので、ご飯を口に入れ、ベッドの角度を調整し、飲み込みやすくしたり工夫をした。2度の脳梗塞は体に大きなダメージを与えていた。

このときはずっと続くと思っていた。

しかし、その終焉は思いのほか早くやってきた。あるとき、呼吸がゆっくりになっていた。その間隔がだんだんと長くなってきた。

1秒胸が膨らみ1秒胸がしぼむ。その間隔が2秒になり、3秒になっり、そして5秒…20秒…60秒となった。

先生をお呼びした。夜中の2時か3時だったかもしれない。

息を吐いて60秒を過ぎたところで、父の耳元でささやいた。「ゆっくりネ、ゆっくりでいいからね

でも、二度と胸が大きく膨らむことはなかった。

父の体温は外側から徐々に徐々に冷たくなっていった。最終的に胸の真ん中まで冷えていくのに、1時間はかかったかもしれない。

父は逝った。

こうして、人間の時は止まってしまう。私たちもいずれ同じ道を歩むことになる。それが少しだけ早いか遅いかの違いだけ。

だから、この時は大切にしないといけない。

自分に与えられたこの「」で、一体、何を残せと言っているのだろう。それを見つけるのは自分であって、見つからないで死んでいく人は五万といる。自分は、それを見つけられる人間でありたいと願う。

神経を張りめぐらし、どんな情報も逃さぬように立ち居振る舞わなければいけない。


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父の話(5) [父の話]

振り返ってみると、彼が悪口を言っていることを聞いたことがなかった。正確に言うと、意見は言ったが悪口は言わない人間だった。

私は他人の悪口噂話は飯より好きな人種で、全くDNAは受け継いでいない

確かに悪口はそのときの気晴らしにはなるけれども、決して自分の心の中は洗浄してくれない

嫌な脱力感のみが残ってしまう。しかし、それを言っている本人は全く気がつかないから具合が悪い。

今、ヘイトスピーチ、ヘイトスピーチと騒いでいるけれども、彼らはそれをもって自分の気持ちを一人勝手に高揚させているんだろう。全くの自己満足以外の何者でもない。それを行使することで何か解決策が見えてくると思っているのだろうか。

大体、お隣同士3回続けて挨拶をしないで無視をしていれば、その関係は否応なく悪化する。最低限、笑顔で挨拶をすれば、最低限の交流は始り、認め合い、話し合い、物事は動いていく。人間は、そういうもの。ごくごく単純な回路をもって動いている者なのです。でも、それをご本人は理解できない

ヘイトスピーチ=「憎悪にもとづく発言」という意味らしいが、そのまま言えばいい。報道する側も「憎悪にもとづく発言」の行進がと言えばいいんです。ヘイトスピーチと言えば、通りがいい、今流で許されるみたいな、そんな風潮もあるのか、ないのか。

憎悪にもとづく発言を言っている時間があるくらいなら、何か役立つ建設的な意見を言ってもらったほうが、どんなに世の中のためになるか。人は生きてきた以上、何か役割があるはず。その役割を見つけ自分を奮い立たせ、ぶれることなく進まなければいけない。その時間とマンパワーは、その日のために温存しておいたほうが懸命だと思う。


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いじめに遭っていた父の話(4) [父の話]

生前、決して、この件で多くはしゃべらなかったけれども

学校帰り「馬糞を食え」と言われたことがあると一言ポツリと言ったことがあったので、普通に考えれば、きっと何回もいじめられていたのだろう

貰い子でチビときては、いじめには好材料であったと思う。馬糞も実際に食べた。 

しかし、彼は決してめげなかった。じっと我慢をし不登校にならなかったのは、自分を養い、守ってくれたおババ様がいたからにほかならない。

しかし、そんな彼は一体、いつ、どうやって知識を詰め込んでいったのであろうか

私が成人し、大学生のころ、よく漢字の読み書き間違いを指摘されたことがあった。それは人名であったり、普通に読み書きに出てくるような漢字なのだが、少し難しい専門的な言葉であっても、彼は正確に教えてくれたものであった。

あるとき、坂本龍馬と何気なく書いた字を、「その龍の字は、横棒が一本少ないぞ」と指摘された。

文字も達筆、書類のまとめる能力ソロバンももちろんのこと、マージャン、ゴルフ、謡、酒、何でもオッケイな男であった。

あるとき、その多種芸が、私にとって大きな災いとなったときがあった。

私が小学生のときである。夏休みの宿題がタップリと残り、家族総出で手伝ってもらっていたときがあった。最後の砦、図画、工作が残っていた。そこで父が画用紙を用意し始めた。私には、夏休みの思い出を書くなんていう芸当はできるわけはなく、ぼんやりと足を投げ出して見ていた。

彼は水彩絵の具を持ち、サッサッサッと青い空と大きな牛と緑の草を書き上げた。タップリと太った父の腹とよく似た、大腹の牛の絵であった。---でも、上手すぎる。でも、明日は学校だ。

翌日、私は恥ずかしさの余り、そっと教壇の指定の場所にその絵を置いた

後日、全員の「夏休みの思い出」が教室に張り出された。

明々白々、その絵は誰よりもうまかった。遠目で見るとすぐにでも立ち上がりそうで奇異なくらいに輝いていた。誰も私をほめなかったし、声もかけなかった。気味が悪いくらい静かな時が流れていった

運の悪いことは続くものだ。

それらの絵は全校生徒分をまとめて、地域の小学校全体のコンクールに出品するという話を聞いた。そして優秀賞とか、努力賞とかを決めるらしかった。もうそれ以上は、私の耳は受け付けなかった。聞こえないのか、聞こえないようにしているのか--きっと聞きたくなかったんだろう

最悪の事態を想定したが、最悪の事態になってしまった。

私の絵--いや父の絵には、金色のシールが張られていたのである。

最悪だ。


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父の話-一言も怒られたことのなかった自分(3) [父の話]

ほろ苦い思い出。 

そう言えば、私は父に怒られたことがなかった。多分なかったと思う。

大学時代、学生仲間でドライブに行った。4人で近郊の山に行った。運悪く、その日の曇り空は、山道に入った我々の車を追いかけてくるように雪に変わり、1時間後、大雪になった

辺り一面はまさに銀世界。林道の山道は車一台、人っ子一人いなかった。

雪は外界の音を一切消した。静寂の音だけが我々の耳に届いた。それはガード下の電車が通り過ぎていくあの音に似ていた。自分の周りの事柄すべてを完全に遮断していた。不気味な静けさ、外界との交わりが絶たれ、おれたちはどこにいるのだろう。そんな真っ白な世界に吸い込まれたことに、我々は誰も気がつかなかった。

1時間後、我々の車は大岩にぶつかり、3人は車外に放り出され、一瞬気を失った。我に帰ったとき、運転手はハンドルを握ったまま谷まで落ちていったのが見えた

悪運強い我々は、奇跡的に全員軽傷を負っただけで済んだ。

全員雪の林道を黙々と歩いた。びしょびしょになりながら、電話のある町まで2時間かけて下山した。車長は半分に圧縮された。皆、茫然自失だった。

話を聞いた父は、事故処理を淡々とやっていた。怒られることもなかったが、一言も言葉をかけてはこなかった。その後、その事件は全くもって家族の中では話題には登らなかったし、父からおとがめを受けることもなかった。

きっと彼は心の中で苦虫を潰していたのかもしれないが、私だったら、息子のホッペタの一つぐらいは殴っていたろう。云々では問題山積だが、彼はある意味、非常に辛抱強い人間だったんだと思う。

そんな彼の足元にも及ばない自分が、今ここにいる


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父の話(2) [父の話]

人に引き立てられることの意味 

父が通っていた時代の学校は尋常小学校、これは6年制(12歳まで)、その後、高等小学校が2年あった。これで義務教育は終わる。つまり、14歳を超えたところで社会人となっていた時代。今の中学生卒と同じ感覚だけれども、彼が高等小学校まで行っていたかどうかは不明。

なぜなら、彼は貰い子でしたから、そんなに先の学校に進学することもままならないことは想像に難くない。

当時、日本の地方都市では、林業や農業が盛んで、中心的な産業は一次産業だった。例外なく彼の生まれた町も林業が盛ん。そのため、彼は林業関係の会社に就職することになった。

そこで何年かが過ぎていく。ある日、そこの職場の上司が、彼にこう言った「あんたは、こんなところで働くより、もっと別な働き場所がある」と。それが、こんな場所で働くのはもったいないと言ったのか、この職場には全く向いていないと言ったのか。どういう意味なのかはわからないが、その上司の口利きもあり、転職をすることになる。これが尋常小学校しか出ていない彼の大躍進の人生となることは、そのときの彼には、当然わかるはずもないことだった。


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父の話(1) [父の話]

お墓参りに行くといつもふと思うことがある。

我が家の墓は父だけが入っている。父が初代だ。

もちろん、私の父が突如としてこの世に生まれ出たわけでない。つまり「先祖代々の墓」ではないのだ。

父は貰い子です。

生前、彼は詳しい経緯を話してくれなかったので思ってもみなかったのですが、戸籍謄本を取り寄せるにつれて、いろいろとわかってきたんです。

彼の父と母となる二人は、彼を産んだのだけれども、大人の事情によって結婚はできなかった。

私から見て祖父に当たるその人は髪結い(床屋)をやっていたが、祖母は不明。

その後、祖父か祖母の「知り合いの女性」に引き取ってもらって、彼は見ず知らずの家庭に同居させてもらったことになる。この知り合いの女性というのは、どういう知り合いなのか、多分、近い親戚に当たるのであろうが、父にとっては赤の他人になるわけで、余り居心地のいい場所ではなかったはず。

父から聞いたことでよく思い出すことがある。

風呂を沸かしながら、地べたに木の枝で漢字の練習をしたという。(ノート)も光(ランプかろうそく)も自由に使えない立場で、昼間は小学校に通いながら、家に戻ってからは身を寄せていたそこの家の手伝いをやっていたらしい

明かりはないので、風呂釜のわずかな光だけ。(時代は1910年代後半です)

今のようにスイッチ一つで給湯されるわけではなく、家の外にカマドがあり、そこに紙とか、枯れ枝をクベて火を起こし、風呂を炊くという、今の人にとっては信じられないような状況だったとか。冬の季節は極寒だろう。

時代がたった100年ぐらい前だけれども、上の2行の中にも「くべる」とか、「かまど」とか、「炊く」とか、今では死語と笑われるような言葉が出てくる。

まだまだ続きそうなので、今日はこのぐらいで終了。 


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