偏平足 [父の話]
早13年が過ぎた [父の話]
13回忌 [父の話]
桜を見ていたら、ふっと思い出した [父の話]
大失態をした [父の話]
最後の父の話(5) [父の話]
2016.7.12
93歳、彼の長い闘病生活は幕を閉じた。
ほぼ20年近い闘病生活に別れを告げられたことは、彼にとっては安堵以外の何ものでもなかったんではないかと思いたい。私も、それによって看病生活から開放されたことになった。しかし、あくまても母親のサポートであり、正直、安堵というよりも、やはり残念という気持ちが強かったかもしれない。
最後の1か月は、我が家で看取るととした。病院に入院はしたものの、その看護体制に怒りを覚え、自宅に引き取ることにした。医者は、「家で診るのは、大変だよ。病院にいたほうがいいんだけど・・・」と言いながら父を診ることもなく長い廊下を歩いていった。
退院後、訪問医を頼んだ。
幸いなことによく面倒を見て、適切なアドバイスをしていただける先生であった。
女医さんであったけれど、診療所を開設したばかりでもあり、一生懸命さがこちらにも伝わった。
おむつ交換、入浴、タン吸引、栄養剤の鼻からの挿入、褥瘡の手当等々、いろいろなことを教わって、我々を引っ張っていってくれた。私たちも、緊張感をもって楽しく介護ができた。
父は節食嚥下もうまくできなかったので、ご飯を口に入れ、ベッドの角度を調整し、飲み込みやすくしたり工夫をした。2度の脳梗塞は体に大きなダメージを与えていた。
このときはずっと続くと思っていた。
しかし、その終焉は思いのほか早くやってきた。あるとき、呼吸がゆっくりになっていた。その間隔がだんだんと長くなってきた。
1秒で胸が膨らみ、1秒で胸がしぼむ。その間隔が2秒になり、3秒になっり、そして5秒…20秒…60秒となった。
先生をお呼びした。夜中の2時か3時だったかもしれない。
息を吐いて60秒を過ぎたところで、父の耳元でささやいた。「ゆっくりネ、ゆっくりでいいからね」
でも、二度と胸が大きく膨らむことはなかった。
父の体温は外側から徐々に徐々に冷たくなっていった。最終的に胸の真ん中まで冷えていくのに、1時間はかかったかもしれない。
父は逝った。
こうして、人間の時は止まってしまう。私たちもいずれ同じ道を歩むことになる。それが少しだけ早いか遅いかの違いだけ。
だから、この時は大切にしないといけない。
自分に与えられたこの「生」で、一体、何を残せと言っているのだろう。それを見つけるのは自分であって、見つからないで死んでいく人は五万といる。自分は、それを見つけられる人間でありたいと願う。
神経を張りめぐらし、どんな情報も逃さぬように立ち居振る舞わなければいけない。
父の話(5) [父の話]
振り返ってみると、彼が悪口を言っていることを聞いたことがなかった。正確に言うと、意見は言ったが悪口は言わない人間だった。
私は他人の悪口、噂話は飯より好きな人種で、全くDNAは受け継いでいない。
確かに悪口はそのときの気晴らしにはなるけれども、決して自分の心の中は洗浄してくれない。
嫌な脱力感のみが残ってしまう。しかし、それを言っている本人は全く気がつかないから具合が悪い。
今、ヘイトスピーチ、ヘイトスピーチと騒いでいるけれども、彼らはそれをもって自分の気持ちを一人勝手に高揚させているんだろう。全くの自己満足以外の何者でもない。それを行使することで何か解決策が見えてくると思っているのだろうか。
大体、お隣同士、3回続けて挨拶をしないで無視をしていれば、その関係は否応なく悪化する。最低限、笑顔で挨拶をすれば、最低限の交流は始り、認め合い、話し合い、物事は動いていく。人間は、そういうもの。ごくごく単純な回路をもって動いている者なのです。でも、それをご本人は理解できない。
ヘイトスピーチ=「憎悪にもとづく発言」という意味らしいが、そのまま言えばいい。報道する側も「憎悪にもとづく発言」の行進がと言えばいいんです。ヘイトスピーチと言えば、通りがいい、今流で許されるみたいな、そんな風潮もあるのか、ないのか。
憎悪にもとづく発言を言っている時間があるくらいなら、何か役立つ建設的な意見を言ってもらったほうが、どんなに世の中のためになるか。人は生きてきた以上、何か役割があるはず。その役割を見つけ、自分を奮い立たせ、ぶれることなく進まなければいけない。その時間とマンパワーは、その日のために温存しておいたほうが懸命だと思う。
いじめに遭っていた父の話(4) [父の話]
生前、決して、この件で多くはしゃべらなかったけれども、
学校帰り「馬糞を食え」と言われたことがあると一言ポツリと言ったことがあったので、普通に考えれば、きっと何回もいじめられていたのだろう。
貰い子でチビときては、いじめには好材料であったと思う。馬糞も実際に食べた。
しかし、彼は決してめげなかった。じっと我慢をし、不登校にならなかったのは、自分を養い、守ってくれたおババ様がいたからにほかならない。
しかし、そんな彼は一体、いつ、どうやって知識を詰め込んでいったのであろうか。
私が成人し、大学生のころ、よく漢字の読み書き間違いを指摘されたことがあった。それは人名であったり、普通に読み書きに出てくるような漢字なのだが、少し難しい専門的な言葉であっても、彼は正確に教えてくれたものであった。
あるとき、坂本龍馬と何気なく書いた字を、「その龍の字は、横棒が一本少ないぞ」と指摘された。
文字も達筆、書類のまとめる能力、ソロバンももちろんのこと、マージャン、ゴルフ、謡、酒、何でもオッケイな男であった。
あるとき、その多種芸が、私にとって大きな災いとなったときがあった。
私が小学生のときである。夏休みの宿題がタップリと残り、家族総出で手伝ってもらっていたときがあった。最後の砦、図画、工作が残っていた。そこで父が画用紙を用意し始めた。私には、夏休みの思い出を書くなんていう芸当はできるわけはなく、ぼんやりと足を投げ出して見ていた。
彼は水彩絵の具を持ち、サッサッサッと青い空と大きな牛と緑の草を書き上げた。タップリと太った父の腹とよく似た、大腹の牛の絵であった。---でも、上手すぎる。でも、明日は学校だ。
翌日、私は恥ずかしさの余り、そっと教壇の指定の場所にその絵を置いた。
後日、全員の「夏休みの思い出」が教室に張り出された。
明々白々、その絵は誰よりもうまかった。遠目で見るとすぐにでも立ち上がりそうで、奇異なくらいに輝いていた。誰も私をほめなかったし、声もかけなかった。気味が悪いくらい静かな時が流れていった。
運の悪いことは続くものだ。
それらの絵は全校生徒分をまとめて、地域の小学校全体のコンクールに出品するという話を聞いた。そして優秀賞とか、努力賞とかを決めるらしかった。もうそれ以上は、私の耳は受け付けなかった。聞こえないのか、聞こえないようにしているのか--きっと聞きたくなかったんだろう。
最悪の事態を想定したが、最悪の事態になってしまった。
私の絵--いや父の絵には、金色のシールが張られていたのである。
最悪だ。
父の話-一言も怒られたことのなかった自分(3) [父の話]
ほろ苦い思い出。
そう言えば、私は父に怒られたことがなかった。多分なかったと思う。
大学時代、学生仲間でドライブに行った。4人で近郊の山に行った。運悪く、その日の曇り空は、山道に入った我々の車を追いかけてくるように雪に変わり、1時間後、大雪になった。
辺り一面はまさに銀世界。林道の山道は車一台、人っ子一人いなかった。
雪は外界の音を一切消した。静寂の音だけが我々の耳に届いた。それはガード下の電車が通り過ぎていくあの音に似ていた。自分の周りの事柄すべてを完全に遮断していた。不気味な静けさ、外界との交わりが絶たれ、おれたちはどこにいるのだろう。そんな真っ白な世界に吸い込まれたことに、我々は誰も気がつかなかった。
1時間後、我々の車は大岩にぶつかり、3人は車外に放り出され、一瞬気を失った。我に帰ったとき、運転手はハンドルを握ったまま谷まで落ちていったのが見えた。
悪運強い我々は、奇跡的に全員軽傷を負っただけで済んだ。
全員雪の林道を黙々と歩いた。びしょびしょになりながら、電話のある町まで2時間かけて下山した。車長は半分に圧縮された。皆、茫然自失だった。
話を聞いた父は、事故処理を淡々とやっていた。怒られることもなかったが、一言も言葉をかけてはこなかった。その後、その事件は全くもって家族の中では話題には登らなかったし、父からおとがめを受けることもなかった。
きっと彼は心の中で苦虫を潰していたのかもしれないが、私だったら、息子のホッペタの一つぐらいは殴っていたろう。躾云々では問題山積だが、彼はある意味、非常に辛抱強い人間だったんだと思う。
そんな彼の足元にも及ばない自分が、今ここにいる。
父の話(2) [父の話]
人に引き立てられることの意味
父が通っていた時代の学校は尋常小学校、これは6年制(12歳まで)、その後、高等小学校が2年あった。これで義務教育は終わる。つまり、14歳を超えたところで社会人となっていた時代。今の中学生卒と同じ感覚だけれども、彼が高等小学校まで行っていたかどうかは不明。
なぜなら、彼は貰い子でしたから、そんなに先の学校に進学することもままならないことは想像に難くない。
当時、日本の地方都市では、林業や農業が盛んで、中心的な産業は一次産業だった。例外なく彼の生まれた町も林業が盛ん。そのため、彼は林業関係の会社に就職することになった。
そこで何年かが過ぎていく。ある日、そこの職場の上司が、彼にこう言った「あんたは、こんなところで働くより、もっと別な働き場所がある」と。それが、こんな場所で働くのはもったいないと言ったのか、この職場には全く向いていないと言ったのか。どういう意味なのかはわからないが、その上司の口利きもあり、転職をすることになる。これが尋常小学校しか出ていない彼の大躍進の人生となることは、そのときの彼には、当然わかるはずもないことだった。
父の話(1) [父の話]
お墓参りに行くといつもふと思うことがある。
我が家の墓は父だけが入っている。父が初代だ。
もちろん、私の父が突如としてこの世に生まれ出たわけでない。つまり「先祖代々の墓」ではないのだ。
父は貰い子です。
生前、彼は詳しい経緯を話してくれなかったので思ってもみなかったのですが、戸籍謄本を取り寄せるにつれて、いろいろとわかってきたんです。
彼の父と母となる二人は、彼を産んだのだけれども、大人の事情によって結婚はできなかった。
私から見て祖父に当たるその人は髪結い(床屋)をやっていたが、祖母は不明。
その後、祖父か祖母の「知り合いの女性」に引き取ってもらって、彼は見ず知らずの家庭に同居させてもらったことになる。この知り合いの女性というのは、どういう知り合いなのか、多分、近い親戚に当たるのであろうが、父にとっては赤の他人になるわけで、余り居心地のいい場所ではなかったはず。
父から聞いたことでよく思い出すことがある。
風呂を沸かしながら、地べたに木の枝で漢字の練習をしたという。紙(ノート)も光(ランプかろうそく)も自由に使えない立場で、昼間は小学校に通いながら、家に戻ってからは身を寄せていたそこの家の手伝いをやっていたらしい。
明かりはないので、風呂釜のわずかな光だけ。(時代は1910年代後半です)
今のようにスイッチ一つで給湯されるわけではなく、家の外にカマドがあり、そこに紙とか、枯れ枝をクベて火を起こし、風呂を炊くという、今の人にとっては信じられないような状況だったとか。冬の季節は極寒だろう。
時代がたった100年ぐらい前だけれども、上の2行の中にも「くべる」とか、「かまど」とか、「炊く」とか、今では死語と笑われるような言葉が出てくる。
まだまだ続きそうなので、今日はこのぐらいで終了。