水窪ダムのバスは素直だ(1) [生活]
2017.8.29
盆休みに米沢に行った。そのとき、ダムに向かう道は左側なのだ。しかし、今日は釣りに行くわけではないから、まっすぐに進んだ。そのときダムがどういう状況にあったかは定かではない。
また、何の話をしているんだ。このブロガーは?と思われてしまいそうだ。
ここからはバス釣りの話です。興味のない方に最後まで読んでもらえるよう、心配りをして書きたい。
あの悪名高きバス釣りは、今はメジャーの地位を陥落してしまって、誰も先頭を切って「私はバスフィッシャーマンです」とは言わなくなった。確かにバスの食欲はすごい。好物はオイカワ、ウグイ、アユ、ヨシノボリ、海老、ザリガニ何でもござれ、らしい。
「らしい」と書いたのは、私はこのすべてを見ていないからよくわからない。バス氏の隣人でもないし、懇意にしているバスもいないので、自分の目ではっきりと見たもの以外はあまり信じないことにしている。特に自然界のことは摩訶不思議なことが多いから。
自分の目ではっきりと見たことがあるのは、ザリガニ、海老、ミミズ、オイカワらしい稚魚の大群をペロリと食べたことぐらいか。ザリガニははさみなどはものともせず、オイカワは50匹以上はいたであろう稚魚の大群をペロリと飲み込んだ。
あれではひとたまりもない。漁業関係者の方々が目の仇にするのは、よくわかる。
前職の友人と二人でよくバス釣りをした。
私の友人はバスボートを持っていた。特に金持ちというわけではなかったが、バス釣りが好きで好きでたまらなかったんだと思う。
その彼のバスボートに乗っけてもらい。よく一緒に釣りに行った。
いつも彼のキャストした後に自分がキャストするもんだから、私のルアーにはバスが食いついてくれるわけもなく、彼の成績(釣果)を自分が超えることはできなかった。
自分はバスボートを買うほど生活にゆとりがあるわけはなく、買うことなく今に至っているが、彼はまだ所有しているのだろうか。当時、バブル前のまだ豊かな時代、バスボートの駐艇場はたくさんのバスボートであふれ返り、駐艇場を増やそうとしていたバスショップが数多くあったのを覚えている。
先日、駐艇場の前を通った。まだ駐艇場はあったものの、前よりも若干台数は減ったような感じがした。
あいつはその後、リストラもされず(前職では同じくリストラをされた)頑張っているのだろうか。
すみません、またまた、水窪ダムに行けなかった。次回は絶対に。
水窪ダムのバスは素直だ。 [生活]
2017.8.29
今月もあと2日だ。大人の私たちは、あの気分をとっくのとお(遠く)に忘れてしまったけど、31日の「31」があんなにもありがたいものだったということを、ふと今カレンダーを見て思い出した。
ぐうたらな私はいつも宿題がたんまり残っていた----今はそんなに宿題は出ないらしいけど----この31日は宝もののように大事にしていたものだ。とはいっても、宿題を仕上げなければいけないわけだから、朝から夜まで机に釘付けになって終わせなければいけないはずなのだが、普段勉強をする習慣がないのだから1時間も机に向かえば、あとは飽きてしまうわけで、1時間やっては30分休み、1時間やっては30分休みがやっとやっとだった。
大体、図画・工作、家庭科、自由研究が最後まで残った。
図画は父が得意だったので、牧場の絵をかいてもらった。外部のコンテストか何かで銀賞か、銅賞かをもらった記憶がある。金賞をもらわなかったのが、せめてもの救いだった。
工作は、割り箸で城をつくろうということになった。イイダーシッペはもちろん、父であった。見事城らしいものができあがった。後日、工作室に並べられ、ほかの友達の作品と見比べられたわけだが、群を抜いてというか、小学生? という異彩を放っていたのは、もちろん、父上作であったからにほかならない。
自由研究、これは7月の下旬に、自分からセミの標本をつくるとか言い出して、一生懸命つくったような記憶がある。しかし、標本が集まらず、1つか、2つのセミに防腐剤か何か、青い液体を注射して、箱に入れて何とか提出したようなことを覚えている。
それもこれも皆一家総出であった。だから、今思えば、自分にとって夏休みの宿題は何の役にも立っていなかったのがわかる。夏休みの課題は、自立の第一歩だったのにね。
すみません、表題の水窪ダムとはほど遠い内容になってしまった。
水窪ダムの話は次回。