母の話(16) [母のこと]
2017.3.7
母は何とか低位安定。介護体制がやっと整った。---とはいっても、それは私ができ得る介護体制のこと。
それこそ持続可能性介護というやつだ。火曜日から土曜日まで、朝と夜に入っていただき、私は日と月曜日を担当。
火曜日~土曜日は昼だけ水分補給とビスケットなどちょっとしたお茶菓子を食べてもらうために私が行くことにした。これだと非常に気分的に楽---それは母が歩くことがだんだんできなくなってきたからで、私がやっても、介護の方がやっても余り差がなくなったということかもしれない。
私の仕事が立て込んで行けなくなった場合でも、最悪、朝と夜は来ていただけるわけで、何とか最低限のカバーはできていることになる。
介護度4で3万円までの出費は介護保険で可能。執行率は93%。そのほかに訪問医に払う分が月1回で3~5千円、ベッド゛おむつ等の介護用品が6~7千円。合計で4~5万円/月。
これが介護付き高齢者住宅に入れば、15~20万円かかるわけでもっと家族の負担は大きくなる。
老親の財産、年金でカバーできればいいが、カバーできない場合、そしてまた、子ども(老親から見れば孫)の教育費が重なってしまったら大変なことになる。そこまで親は考えて人生を歩まなければならない。
やはり、人生、金次第ということかもしれない。
少量高栄養が源 [母のこと]
2017.3.1
そうそう3月に入ってしまったんですね。
確定申告もあるしね。
この時期になると本業の仕事も盛りになる。だから、20年近く桜の見物をしたことがない。
車で通りすがりに垣間見る。ちょっとだけ垣間見る。仕事が終わり自由になって、桜のあるところに行っても葉桜だったり、散ってしまったり。仕事だから仕方がないけれど、ほんとに運が悪い。だから、異常気象で寒かったり、開花が遅れると非常にうれしい。そんな不埒者です。
母はますます低位安定。歩けなくなりつつあり、反応がいいときもあるし、無反応に近いときもある。大声を出すより、小さく耳元でささやくほうが確実に返事をしてくれる。短く「うん」「そう」、「えっ」ぐらいだけど、そう言ってくれるだけでウレシイ。
食欲は運良く悪くはない。本当は1日5食ぐらいにしても、きっと食べるのだろうけれど、こちらはそうもいかないので1日3食がやっと。1回に摂取する量が少しなので、回数を稼ぎたいのが本音だ。多分、口を動かすことも彼女にとっては重労働なのだろう。
ジョクソウも運良く発生していないので助かっている。動けない、動かないから同じところがポイントとなって皮膚が赤くなり、腐り始める。あっという間に腐っていく。亡き父はそうだった。あっという間にあっちこっちと発症。そんなことは今のところはないので安心をしているが、要注意だ。
したがって、少量高栄養を目指している。玉子とホイップ、コーンスープの素を徐々に温めながら攪拌、電子レンジで5秒、5秒、3秒と温めながら攪拌。それを飲んでもらう。これで玉子1個/日摂取をクリア。
クリームチーズをビスケットとか、パンに乗せる。ビスケットと言っても親指の爪の広さぐらいの大きさにちぎって食べてもらう。何十回と口に運ぶ。根気の要る作業が続く。菓子パンだったら4分の1、ココアも飲んでもらうが、やはりコップ4分1ぐらいが精一杯。ポカリスエットはコップ1杯、1000cc/日が目標。
いつ終わるかわからない介護。週5日、朝・昼に来てもらっているので、私は昼だけ行くことにした。これなら何とかもつ。1年、2年、3年・・・。まずは後悔しないところまでということか。清貧潔癖な母は、きっとそんな介護を望んではいなかったはずだけど、これが現実。
しっかりと確実に毎日を送ろう。
母の話(15) [母のこと]
2017.2.15
介護の限界を感じることが多い。日々落ち込むことは多いが、今日はヘルパーさんの作業の限界について記録に留めたい。
ヘルパーさんには医療行為はできないとあり、それは当然。しかしながら、母の場合は梗塞でもなく、老化による筋力低下、歩行困難がある。ベッドから起こし、簡単なマッサージをし、歩行を促す。足をちょっとでも触れようものなら非常に痛い表情を浮かべるので、ヘルパーさんは触らない。触らないと動かさない。動かさないから動けなく、歩けない。これの繰り返しだ。
家族はいつもマッサージをする。もちろん、玄人ではなく、素人がやるマッサージだから想像の域を出るわけがない。太股が痛い、その裏側を揉むと痛みがとれる。足首を回す、膝の裏側の筋が反応、足裏をこする、足首の筋が反応する。そんな反応を見ての見よう見まねのマッサージた。すると何となく歩ける。もちろん、風が吹けば転んでしまうような体幹状態だが、自分で歩いてトイレに何とかたどり着く。
自分で立って排泄をする。これは人間最後の砦だろう。
しかしながら、マッサージは医療行為だということで、正面切ってヘルパーはマッサージはしない、できないと言う。毎日10~15分のマッサージなのだが、それはできないと言われてしまう。
毎日、マッサージに15分来ていただくわけにもいかず、それは家族がみることになる。
「余り無理をしないでくださいね」とケアマネ、医者・看護師は言う。むなしい言葉だけが心に響く。
これが我が家の介護の現実だ。
母の話(14) [母のこと]
2017.2.4
最終コーナーを回った気がした。
母は嚥下はよかった。むせることもなく、食べ物はスムーズに飲み込んでいた。ところが今日の朝、いつものとおり、口を洗い、口をすすいでもらった。ところが、その水を口から出さない。出せないのか、出さないのか。以前にも、そのようなことは度々あったが、さほど気にすることもなく、吐き出していた。しかし、今日は20分ぐらいだろうか、母は口に入れたまま、うがいの水を口に含んだまま時間が過ぎていった。
やっとのこと。口から出したものの、いざ朝食を食べようとしたら、何やらまだ口に入っている様子。唾液をまだ口に貯めているようで、大好きなチョコレートも口にしない。彼女はもともと何度も何度も口の中をきれいさっぱり出さないと気が済まないタチであった。つまり、1回だけ口から出しても、まだ口に残っている状態なのだ。
残っているそのことに気がつかないまま、食物を口に入れようものなら、彼女は口はいっぱいになってしまって、当然むせてしまうことになった。
それを朝と夜に繰り返した。ポカリスエットは何とかスムーズに飲んだのだけれど、ほかの食物は結局のところ、彼女の胃には行かずに口の中でグルグルと対流していたことになる。
そして、最終的に、むせて誤飲となってしまった。耳元で、そのことをやさしく説明しても、「ウンウン」と理解したと返答はするのだけれど、体(喉が、口が)動かないのかもしれない。飲み込みがいいからダイジョウブだと思っていたが、そうではなさそうだ。彼女自身の体の寿命というものかもしれない。飲み込むという動作を忘れてしまったのかもしれない。
ついに最終コーナーを回りつつあるような気がしてきた。口からが駄目になったら、あとは点滴しかない。点滴はただの食塩水だ。気休めに過ぎないことは事実だ。
水だけの摂取、30キロの体重で、あと何カ月もつのだろうか。
母の話(13) [母のこと]
2017.1.31
なるべく書くことを憚って(ハバカッテ)いたけれど、久々に母の話をしたい。
あの時からあまり変わってはいないが、一つ考え方を変えたのは、事業所をもう一つ使おうということ。
しかし3週間になるが、今現在、ケアマネージャーからは返事はない。
どこの事業所もなかなか手が回らないということか。小規模多機能型という事業形態があると聞いたが、それは定額制ということで、使っても使わなくても2万3000円見当とのこと。週2回をお願いしたいと思っているので、それで2万3000円を請求されるのは、ちょっと割高。保険で済むとは言え、残りの部分は国が支払うわけで、国の事情、アベノミクスの危うさ、プライマリーバランスの先送り等々を考えると、決していい子ぶるわけではないが、なるべく節約すべきだと思う。
先日も、市から介護保険使用料に対する補助申請をという案内が2回来た。1度目は無視していたのだが、2回目なので、市に電話をし、丁重にお断りをした。理由は同じだ。
自分だけがいい思い、国の金だから気にしなくていいという気持ちには、私はなれない。
2週間前、介護さんにマッサージをしてからトイレに連れていってほしいこと。初動のときに少しさするだけでトイレまで動けるのだからお願いしたいと連絡を入れた。その甲斐あって、金曜日の介護明けの母の動きはスムーズであった。とは言え、一歩一歩、母の後ろにぴったりと体をつけて、ゆっくりゆっくりと歩いていくわけで、端から見たら馬鹿みたいな話だ。
食欲も少しずつ、受け答えも少しずつ、何でもかんでも少しずつではあるが改善している。
1週間前、それは半分に減ってしまった。今週はどうなるのか。また元に戻るのか。戦々恐々、やはり、最後は身内の私の力しかないのか。
みんなやさしく、「無理をしないで」、「ほどほどに」、「あなたが倒れないように」と言ってくれるが、それに対する支援はない。それが現実だ。別に厭世観的な見方にはならないが、負けてたまるかという気になってしまうのは仕方がない。
自分の生きていく道は別にあるわけで、その目標を忘れずに、牛歩のように一歩ずつしっかりと歩む。それしかない。
私より、もっと恵まれない人たち、特に経済的に恵まれない人たちも多いのだ。自分だけ悲劇のヒロインになったつもりになることは不遜というものだろう。
久々の投稿だが、暗い話で申し訳なく思う。
母の話(12) [母のこと]
2016.12.19
ここ二、三日気分が優れない。
原因は、週3日お願いしていたヘルパーさんの後、つまり4日目は私が介護をするわけだが、そのときの母の体幹が頗る悪くなっているということだ。つまり、ヘルパーさんの来ない4日前まではすごく調子がいい。足の運びもすごくいいのだが、ヘルパーさんに3日間お世話になった後からが後退している。お世話になっていて文句を言うのは失礼な話だが、ここの1か月間の様子を見ていると、それが明らかになってしまった。
介護に入るとき、足を触るとすごく痛いと訴え始めたのが、ここ1~2か月前から、それもかなり痛みを訴えるようになった。仕方なく、私はマッサージをするようにした。15分から20分ぐらいのものだが、これでかなり改善する。痛みを訴えなくなり、歩行もできるようになる。
しかし、介護職の方々は、時間がないからしない。痛みを訴えると、即ベッドでの介護作業となる。ベッドでのおむつ交換、ベッドでの食事。つまり全く歩かない、歩かせない3日間を過ごすことになる。それが容体を悪くしているように思えてならない。彼らのサイドに立てば、1時間でのマッサージ、トイレ、歯磨き、顔拭き、食事は現実的に無理。
それにまた、ヘルパーさんは医療行為(マッサージは医療行為らしい)をしないから、それを頼むのは無理だとケアマネ、看護士の両方から言われた。ほかにマッサージを専門に頼むことは時間的制約から多くは入れられず、よいアドバイスはいただけなかった。
つまり、介護を入れると弱る、弱るから自分が入る、自分が入るから自分の時間がますますなくなり、頑張る介護になっていく。私の場合、介護離職とはならないものの、普通のサラリーマンだったらば、間違いなく介護離職だ。
元気になる術が少しわかってきたわけで、みすみすそれを捨て、母を弱らせる方向に導くことは、私はできそうもない。
ここを何とかクリアしなければ・・・・・。
母の話(11) [母のこと]
2016.12.6
客観的に見ても限界に近づいていることは確かなようだ。
母は嚥下機能は頗るいい。つまり、咳き込まないということ。老人の多くは、食べたものを誤って肺に入れてしまう。別に入れたくて入れるのではない。飲み込みの筋肉が弱ってきているのだ。悲しいかな、これはいかんともし難い。それが老化していくということだ。
母はそこはパスできる。しかし、食欲がない。認知症がひどいと食べたことを忘れて幾らでも食べる人がいるが、母親は食べない。ここ数日、とみにその量が減ってきている。菓子パン4分の1、ポカリスエット100cc、ココア50ccこれが1回の摂取量だ。ほかの2食も大体似たりよったり。目先を変えてもさほどの進展もない。玉子、チーズを拠り所にしていたが、それも食べなくなった。
人間食べなければ力も出なくなるし、顎を使って食べることだって重労働になる。立ってトイレに行くことも大イベントになってきた。
自分があきらめたら、ほかに代わる人間もいないわけで、私の踏ん張りが母の命をつないでいくという最悪か最善かはわからないけれど、そんなシナリオになりつつある。
看護師曰く、ほかの方法としては、
点滴、栄養剤の注入があるらしいが、栄養剤の注入はカテーテルを入れ、延命措置になり、母がそれを望むかというと、それは否。自然のままと言っていたので、多分、そういう方向に行くだろうが、難しい選択が続く。点滴は水分補給だけなので、気休めに過ぎないとのこと。
しかし、あともう少し、母のために、自分のために頑張ろう。
枕が変わる [母のこと]
2016.12.5
昨日は母のところに寝た。何となく胸騒ぎというか、しきりに妻も言うので、私としては渋々母のところに行った。
幸いなことに何もなかったが、床が変わるとなかなか深くは眠れなかったようで、朝起きたときに非常に疲れを感じてしまった。歩くはずのない母が別の部屋で倒れている夢を見たりで、おちおち寝た気分ではなかった。
私に不都合があると嫁に迷惑をかけることになるので、やはり自分は丈夫に長く生きなければいけないと思った次第。
今日はゆっくり眠るゾ。
母の話(10) [母のこと]
2016.1.29
先程、ヘルパーさんの方からメールが来た。今日から3日間はヘルパーさんが来てくれる日で、私は束の間の休みになる。こういうときは、本業であれ、庭の仕事、家の仕事、家内との約束等々を果たす日となる。
今日のメールを見ると、さすがに息苦しくなる。
はやり、他人から見れば、もうすぐ最期の時が来るのは明々白々だ。
前回からはまた悪くなっている。これといって、どう違うかというのは表しづらいのだが、受け答えもはっきりとしなくなっているし、笑顔もなくなってきている。
そういう状態でも、息子としては今週の日曜日に風呂に入れてあげられた。
浴槽内では、足を突っ張る力もなくなってきたのか、両手でグリップを握っているにもかかわらず、体が浮いてしまう状態になってきた。前回まではないことで、明らかに体の内側の力が衰えているということだ。
老人に対しては、医療もリハビリも決して前向きではなく、多くの場合、投げやりというか、「加齢ですから」、「年齢的には仕方がない」という考えが一般的。食事にしても、いろいろと工夫進歩はあっても、個々具体に、「あなたの場合は、これがいい」、「あなたの場合は、これではなく、こっちのほうを」という指導は全くない。これは15年前と全く変わっていない。各職の方々は、日々淡々とこなしている。
悲しいかな、これが介護の現実だ。
母の話(10)-入浴をする [母のこと]
2016.11.18
週に1度の幸せ
母を入浴させる。週にたったの1回だけど、母も私も精一杯。
暖かな日々はよかったけれど、だんだんと寒くなってきた。シャワーを全開にして、浴室内を温かくして入るのも限界になってきた。意を決して浴槽に入ってもらう段取りをした。もともと父の介護時代にあつらえたものなので、使い勝手は普通の浴槽とは違って、座位を保ってからゆっくりと湯船につかれるようになっている。
とは言え、こちらも準備は十分にしなければならない。海パンいっちょうで母を湯船に招き入れる。そして、そのまま頭から体を洗っていく。本人もやはり気持ちよさそうだ。
現役時代、彼女は風呂には積極的ではなかった。下町のアパート暮らし、ちょっと前まであった原宿の同潤会アパートと同じ建ち住まい。しかし、風呂はない。銭湯に行かなければならないから、必然的に回数が少なくなったんだろう。
そんな母から間違いなく、私は生まれた。シワシワになった体。その割には形として残っている胸。そう思うと、やはりじゃけんにはできない。
気がつくと体の続く限りと思う介護に踏み込んだ私がいた。
母の話(9) [母のこと]
2016.11.6
速いな、ちょっと時間を置いたつもりでも、前回の更新から3日も経ってしまった。
今日は久々に母の話です。
スライスチーズ1枚+卵1個+水分等々で何とか最悪状況を脱してきた。
平衡感覚もさほど鈍くなく、受け答えもはっきりとできてきた。
私が自分の息子であることも理解する日々が多くなったかもしれない。やはり、食べ物の力はすごいと思った次第。
夕食はほとんど食べず、いつもごみ箱に直行状態。もっと元気なころならイライラしてしまい、「せっかくつくったのに、もったいない。時間を都合して来るこっちのことも考えろ」などと罵声を吐いてしまったりしたものだが、さすがにここまで弱ってくると、鬼息子でもそうは言えなくなった。
朝と夜の2回の母への食事持参通勤?を懐かしむときが少しでも先になるように日々生活していることを忘れずに、もう少し踏ん張ってみよう。
母の話(8) [母のこと]
2016.10.3
母の食欲は相変わらず芳しくはない。
食パンを四分の1枚も食べ切れない。ポカリスェットも200㏄が関の山だ。
高カロリー、高脂肪、現代人が今一番毛嫌いしているものを選べばいいのだけれど、量は少なく、かみやすいものとなるとなかなか見つからない。
介護の人たちがよく言うのは、ゼリー、プリンとかだけど、幾ら甘いものが好きな人間でも、毎日プリンでは食べなくなるのは目に見えている。
そこで考えたのが、卵の半熟とチーズ、チョコレート、高栄養ウィダインゼリー、アイス、プリン、ホワイトソース類、野菜ジュースなどなど。
半熟卵とマヨネーズ(醤油、ケチャップ)を絡めティースプーンに、スライスチーズを小さく切って、その上に引っかけるように乗せる。
これにポカリ、野菜ジュース、パンを間にはさみつつ、交互に食べてもらう。
第一目的は卵一個とスライスチーズ一枚の摂取。それに水分200㏄。これが第一優先でやることにした。
夜は食べるときと食べないときがある(食べないときが多いけど)ので、一点集中でやるしかない。
それをやり続けて2週間。
その甲斐あってか、体幹、発声、歩行も少しずつよくなってきているような気がしてほっとしている。
しかし、生きていくための量が絶対的に足りない。
200㏄の水分をティースプーンで口に運ぶ作業は、時間と労力がかかり過ぎる。ヘルパーさんに頼むのは自ずと限界が見える。そのことが、自分で自宅で看取ることになった最大の理由になる。
母の話(7) [母のこと]
2016.9.21
母を少しずつよくはなってきているかな・・・。
とは言っても、スプーン1杯・・2杯・・3杯の世界。
朝食はいつもテーブルに座って食べてもらっている。
先日、いつものように1時間をかけて朝食。
何となくソワソワ気味の母。ベッドに行きたいことに気づきベッドへ。
両手を私の肩に回してもらいベッドに移動中、急に体が重く感じた。
「どうした? まだだめだよ、行っちゃ」、多分、そんな言葉を発したような気がする。
彼女の目は、明らかに生気を失っていて、全く母の目ではなかった。
急ぎベッドに横にした瞬間に、彼女が正気に戻った。
目ははっきりと私を見据えた。
「大丈夫、気を失ったみたい? 血の気が引いたの?」
「そうだね、す~っとね。でも、ダイジョウブ」といつも意思の疎通ができなくなっていた母から
久々に言葉らしい言葉を聞いたような気がした。
ほんのわずか一瞬ではあったが、母との意思を確認したことは非常にうれしかった。
そんなちっぽけな癒しの繰り返しが、母とのエンドレスかもしれない介護生活を支えていく。
母の話(6)-1センチ幅の前進 [母のこと]
2016.8.22
ベッドから立ち上がることが困難になりつつある。介護の方の話を聞くと、既にベッドでおむつ交換、食事等々をやっているようだ。
それを生業としている人たちにとっては、ある意味、時間でこなさなければ、ほかのお客様の迷惑になるので仕方がないのだが、身内としては、そこは意地でも自分は彼らの分をリセットカバーしてやるんだという気持ちにもなってきてしまう。
今日、歩行器を使いトイレまで歩いてもらおうと思ったが、一歩の歩幅がたったの1センチであった。トイレまでは5メーターぐらい離れているのだが、さすがに歩いてもらうのはやめにした。
その歩行器は座ることもできるので、座ってもらって、トイレまで行った。
ベッドから起こすとき、歩行器に移るとき、かなり痛がるのが辛いところだ。やはり体も固くなってきているのだ思う。
母の話(5)-介護にも段階がある [母のこと]
2016.8.22
そして、時は過ぎ(とはいえ、たった2週間ぐらいか)、母はだんだんと一人では歩けなくなった。シモのほうも自分ではできなくなってきた。
おむつは必携だ。それに伴って介護の方法も少しずつ変わってくる。ヘルパーさんとの連絡が必須になる。
極端な話をすれば、以前はご飯さえ用意すれば、あとは帰ってきてしまっても何の不都合もなかった。食器も自分で洗って片づけていたし、トイレも歯磨きも戸締りも全部自分でやっていた。
しかし、ここにきて、おむつの交換、食事の用意と口元への運び、トイレの介助も必要だ。
3日に1回は、お尻周りのシャワーはしてあげないとかわいそうだし、排泄は小便ばかりではないし・・・。
介護仕様は、自分で立って歩ける場合と歩けない場合、はたまた寝たきり一歩手前とでは全然違ってきてしまう。
食事も自発的にできればいいが、それができなくなるとヘルパーさんは時間が動くわけで、彼女のペースで食事に付き合うことになると、1時間は優にかかってしまうわけで、そこは見切られてしまうという切ない話だ。
そこは家族が見守り続けなければならなくなる。
母の話(4)-介護用ベッドを入れる [母のこと]
2016.8.08
行動範囲が徐々に狭まってきている。
以前は家の中を一人歩きし、何の特別な介護は必要ではなかった。
多分、彼女は一人歩きをしているときに転んだんだと思う。1時間前に起こったことですら、正確に私には伝えられないぐらい忘却は進んでいた。ある日、夕食の支度に訪れると、座りながらズリハイをしていた。
「どうしたの?」、「起き上がれないの?」
打ち身による腫れとかもなく、骨にひびが入っている様子もない。往診の先生にも何も言われなかったので、そのままで生活をしていた。若干、動きは緩慢ではあったが、その後の一人歩行は3日に一度が、5日に一度になり、8日に一度になり、だんだんと減っていった。
その日を境に、普通のベッドに寝ていたのをやめ、介護用ベッドをお願いした。ベッドそのものの上げ下げ、頭だけアップ、足だけアップができるものだ。彼女が自分の体を自分で動かせなくなったので、介護用ベッドに代えた。これでヘルパーさんも楽に作業ができる。
母の話(3)-生い立ち [母のこと]
2016.8.14
母の生い立ちは結構特異かもしれない。
そのせいかどうかは知らないけれど、母の性格も結構特異であり、今覚えば、父もよく耐えたんだなと思ってしまう。
母の実家は造り酒屋をしていた。大きな蔵を持ち、従業員(きっと住み込みもいっぱいいたんだろう)も大勢雇っていたらしい。従業員の詳細は不明だが、母の兄弟は3人いたのだが、それぞれに侍女が付いていたというから、それなりに大きな規模だったと思われる。
何不自由なくの生活をしていたのだが、我が母親は頭が多少弱かった。弱かったというのは、あくまでも学校の成績だが、彼女の2つ下の次女が学校の先生、末っ子の長男が国立大を出るほどの頭の良さだったものだから、正しく比較対象にされてきたことは想像に固くない。
そんな彼女でも、今と違いお見合い結婚が常態とされていたこともあり、無事結婚し、私が生まれた。
二人が結ばれなければ、自分はこの世に存在しないわけで、そういう意味では、二人を結びつけてくれた人々には感謝しなければいけないとつくづく思う。
結婚当初、地方にいたのだが、仕事の関係で世田谷に引っ越してきた。今では考えられないが、時の上司の家に間借りをして生活をしていたとのこと。そして、戦争の真っ只中、上司一家は地方に疎開、「君、ここの家買わないか」と、今にして思えば、びっくりしてしまうような話。
当時は、明日にでも米軍が攻撃してくる、まっ黒こげになる、東京都内に焼夷弾が落ちてくると流言蜚語が絶えないときに、その土地を買うなんてことはあり得ないことであろうから、買うほうがおかしいかもしれない。
しかし、今から考えればオシイナ。
そこは何と田園調布・奥沢界隈で日本の一等地。歌舞伎門がある立派な家だったそうで、私としては、ある意味残念至極。田園調布に住んでみたかった。
母の話(2) [母のこと]
2016.8.9
介護度2→4へ。
介護度の変更をお願いしていたが、「2」が「4」になった。私の気持ちとしては、多少ヘルパーさんとか、
介護用ベッドとか、おむつとかが必要なので、「2」ではギリギリなので、「3」をお願いしていたが、判定は「4」ということで、十分保険で対応できそうであり、ほっとしたところ。
今日の母は、トイレに行くのも億劫な様子。もちろん、トイレの場所も定かではなく、何回か促してやっとのこと動き始める感じ。ちょっと前は自分で起きて、歩いたりしている様子があったのだが、ここの二、三日は動きは緩慢、意欲も少し減退、体温も少し上昇(水分を採らないと体温が上昇しやすいらしい)、食欲もない。と悪い状態ばかり。
今日は食パンは2分の1枚、ポカリ1コップ100㏄、牛乳50㏄位がやっと。夕食は鮭寿司にしたが、ティースプーン10杯ぐらいで、「もういい」と言う。
これでは、明日からの猛暑40度は乗り切れるのだろうか。少し心配になってきた。
母の話(1) [母のこと]
2016.7.22
私の母は今年で94歳になる。
決して誇れる94歳ではない。自分で自分のことはできるが、料理はできない。
私たちが朝に夕に食事を持っていく。母は昔から一日2食だったようだ。
自分の家と母の家は車で5分程度だ。スープの冷めない距離ではあるが、毎日のこととなるとハードになる。
週2回ヘルパーさんが我々の代行で息が抜ける。
1か月ぐらい前、母の家に行くと、台所の床に仰向けで寝ていた。暑い日だったので、涼んでいるのかと思ったが、
どうやら転んで起き上がれなくなったようであった。それでも起き上がれば、お手洗い、歯磨き、トイレは自分で
行っていた。それから3日経ったとき、ヘルパーさんからメールが来た。
床にしゃがみ込んでいて、アリが母の周りに集まっていたと。
やはり、もう無理かも。
トイレに自分では行けなくなった。コップも持つのが億劫な様子。
ヘルパーさんを週2日から4日に。介護用ベッドを入れた。介護申請を2から3に申請。
16日~18日に予定していた毎年恒例の家族旅行は、私たちだけ不参加。
K・Oコンサートも3カ所、キャンセル。
介護方法も全く変わってしまったので、ヘルパーさんと変更箇所の確認。
私は、自宅で看取りたい気持ちがあるので(父のときは病院の対応にあきれ、退院させてきた)、
子育てがないからよかったが、これに子育て(乳幼児期、進学期、進路決定期、入社期)が重なったらば、
親としてのアドバイスもしなければいけないので、大変なことになっていたと思う。
そんな思いで毎日母と顔を合わせるが、母は私のことを誰だか時々忘れる。