続・恐怖 [生活]
2022.2.18
こんにちは。
いい天気です。
朝晩はまだまだ寒いけど、日中は風を除けば春の近さを感じさせる日々が多くなった感じ。
冬、風が強いときは北国はまず大雪が降っているというのが定石。出勤前の雪かきは重労働だ。
昨日はちょっと体調が優れなかったので、早々に床に就いた。まあ、年寄りですから自然の流れと言うほかはないけど、うまくこの状態が通り過ぎることを願うばかり。今も回復はしていないものの病院に行っても結果は同じ、時間が無駄と「にべも無し」と開き直る。
何もしないのも不安だから、リョクカンサンハンゲチンピなる漢方飲んでみた。名前は正確ではないけど、我が家では不調時には飲む漢方だ。
最近つくづく感じることだけど、もちろん現役諸氏には全く関係のないお話で予想もつかない話なので、老人の戯言と聞いてくれれば、それでいい。
夜中、トイレに起きたり、朝、床から出て洗面所に行ったり、夜、風呂に入ろうと風呂場に一歩踏み入れたりしたとき、「こんなときにぶっ倒れるんだろうな」とふと思うことが最近多くなった。別にその兆候は感じないし、老人と言われるようになっても、今よく言われるところの基礎疾患はなく、常時服用している薬もない。しかし、体の部品は、それなりに経年劣化しているわけで、幾ら外見が若く見えようとも、年相応であることには間違いはない。医療技術がどれほど進歩しようとも、IPS細胞で内臓がたやすく交換できようとも、それをつなぐ細かな部品というか、ホースがボロボロになっていては、寿命という言葉にそれはかき消される。そんな細かな部品にまで再生医療が到達するには、何年も何十年も時間がかかる。つまり、人の命はまだまだ永遠ではないということだ。
最近そんな思いからか、何への恐怖なのかと考えてみた。よくよく考えると死ぬことは怖くはないのだが、それに至るまでの苦痛に恐怖しているではないかと思うようになった。私は全くの根性なしだから、痛みに全く弱い。両親も、親戚の諸先輩方も死ぬ前は、一応に痛みを訴えていたような気がする。その痛みがどんなものであるのかは想像もできないが、老人の痛みに対しては大方の医者は親身になってはくれないようで、皆皆「痛い、痛い」と顔を歪めていても「うん、うん」と言うだけで大体知らんぷりだ。あの痛みだけは勘弁してよ~~と言いたくなる。それほど、私は痛みには弱く、根性なしなんだよね。逝くときは一発でとエンマ大王にお願いしておくしかなさそうだという、全くの気弱なお話。