バラの移植(2) [バラ]
2020.1.31
続きです。
根っこはこんなものです。
あまり大きくは育っていなかった。
少し先っぽは欠けてしまいましたので、
その分、定植するまで時間はかかりそう。
根を入れ、土をかけ、水をやり、
ここには写っていませんが、腐葉土も間に入れてやりました。肥料はあげてはいけません。肥料をあげると枯れる可能性が大。
土をたっぷりかけ、踏み固め、水が土の中を通り過ぎないように注意して、これからかなりの期間水やりを続けなければいけません。以前の経験だと2~3カ月は必要です。状況を見ながら枝はもっと詰める必要もあるかもしれません。
バラの移植 [バラ]
2020.1.31
こんばんは。
今日で1月も終わりです。昨日とは打って変わってというほどではないですが、風が強くなってきたから寒く感じられてきた。でも、まだまだ暖かい。しつこいですが、太平洋の海水温度は全く下がっていません。
----・----・----
昨日、腰の状況を確かめたいのと日溜まりが暖かそうだったので、残りのバラ4本のうちの1本を移植した。
この穴はバラを移植しようと思っているところを前もって掘っておいたもの。空気に当て、雑菌を殺したいという想いもあり。
全部で4箇所、根っこの張り方を想像し、掘っております。
そうだ。前回は掘っただけで水やりは前もってしていなかったということに気づき、今回は前もって水やりをしております。
これは新雪です。
以前住んでいた家のバラを掘ってきました。
咲くとこんな感じ(これは去年春もの)でツルバラで何十個と花を付けましたが、カミキリムシの初代感染木になってしまいました。
二代目のこれはちょうど背丈ぐらい。今年で4年目ぐらいでしょうか。今まで植えておいた土とは相性がいま一つ。伸びたり、枯れたりで枝は出たり入ったり出たり入ったり、順調な場合だと2~3本の枝だけでドンドン伸びて太くなっていって大輪を咲かせる。それは土と相性がいいことになる。けれど、これは相性がよくなかったため、枝はやっと親指ぐらい。今主力の枝は2本。葉っぱはいい色が付いている。
たまにはマネーの話。 [マネー]
2020.1.30
こんばんは。
今日も快晴はよかったが、暖か過ぎたね。もう春です。でも、まだ1月末日ですよ。信じられない。これじゃ、野菜は育ち過ぎるし、生育にずれがなくなって、一斉出荷、一斉品切れというとんでもないことになりかねない。すべては自分たちが悪いんですが・・・。本当に今夏は怖く、用心すべし。
国のコロナウィルスに対する対策が後手後手だ。島国だから仕方がないといえば仕方がないが、素人の私ですら、中国の春節が始まるころ、これは来ないようにする手立てはないかと思ったぐらいだから、政府としても、何かしらの対策を考えていなければならないはずだと思うが、どうもそうではないようだ。あと出しジャンケンのようなことは言いたくはないが、政府はもう少し対策を早め早めにとってもいい時代(グローバル化)が来たんだと思う。前回「MERS」と「SARS」が流行し、日本は島国だということ、地勢学的に離れていたことなどからラッキーが続いている。しかし、今回はお隣であり、地勢学的にも不利だし、実際、訳のわからない対応をせざるを得ないことになってしまっている。一次感染、二次感染、三次感染、どれであろうと感染していることは間違いないわけであり、バスの関係者の感染が二次だ、三次だと言っているが、もう既に四次、五次ということもあり得る。相手は見えないわけで、専門家ですら絵空事を言っている可能性は高い。政府は今回の経験も踏まえ、隔離病棟はもっと大きいもの、専門性のあるものに特化していくべきであろう。でも、島国根性で、喉元過ぎれば・・・的な発想しかできないお役人仕事になるのか、ならないのか。そのこともしっかりと覚えておかなければいけない。それを注視することが国民の仕事(義務)であり、次回の選挙のときの大切な判断基準にしなければいけない事象の一つだ。
----・----・----
ということで、今回はこのことにも絡んでマネーをお話したい。
このままコロナウィルスが猛威を奮ってしまったらどうなるかということで、ある専門家がこう言っている。
「日本だけ武漢からの帰国者への隔離などをしていないことで、日本は他国よりも感染が拡大したらどうなるのでしょうか?
まずは日経平均が暴落すると思われます。ホンダやトヨタなどの工場が武漢をはじめとした中国の工場停止をしていますが、同様のことが日本でも起こる可能性があります。また上海ディズニーランドが休園しているように、国内の大規模施設が休園するかもしれません。そして最悪な結果に至ればオリンピック並びにパラリンピックも東京開催が断念される可能性もあります。日本の経済は停滞することになるでしょう。
そのようになった場合は、為替は非常に難しい動きになりそうです。感染の拡大はリスクオフを呼び込み、円買いになります。(108円→107円→106円・・・)
しかし、日本だけ感染が拡大した場合は、武漢脱出のように海外勢の日本脱出がおこり、外国人投資家も日本株を売り、リパトリエーション(外貨買い・円売り)が起きる可能性もあります。また日銀は景気停滞を危惧し、更に金融緩和政策を行うかもしれません。これも円売り要因です。
上記のように今までリスクオフは円買いになっていましたが、今後は円売りもあり得るかもしれないことを警戒しておきたいです。」
まずは日経平均が暴落すると思われます。ホンダやトヨタなどの工場が武漢をはじめとした中国の工場停止をしていますが、同様のことが日本でも起こる可能性があります。また上海ディズニーランドが休園しているように、国内の大規模施設が休園するかもしれません。そして最悪な結果に至ればオリンピック並びにパラリンピックも東京開催が断念される可能性もあります。日本の経済は停滞することになるでしょう。
そのようになった場合は、為替は非常に難しい動きになりそうです。感染の拡大はリスクオフを呼び込み、円買いになります。(108円→107円→106円・・・)
しかし、日本だけ感染が拡大した場合は、武漢脱出のように海外勢の日本脱出がおこり、外国人投資家も日本株を売り、リパトリエーション(外貨買い・円売り)が起きる可能性もあります。また日銀は景気停滞を危惧し、更に金融緩和政策を行うかもしれません。これも円売り要因です。
上記のように今までリスクオフは円買いになっていましたが、今後は円売りもあり得るかもしれないことを警戒しておきたいです。」
FX業者のホームページから探して見つけた記事。これだけコロナウィルスが蔓延しつつある状況でも、あまり積極的なコメントがないFX業者は客を少し馬鹿にしているような気がする。わが社だけ儲かればいい的なニュアンスとして私は捉えてしまう。しかし、実態は経済は萎縮していくだろうし、オリンピック開催だって危ぶまれてしまう可能性だってある。このまま、いつものこととして明日にでも鎮静化すればまさに御の字だが、人生も経済も一瞬先は闇だ。ほんの少し前は、ニューヨークダウは3万円カウントダウンと言っていたはず。たしか今月の21日ごろだと思う。たった、1週間で状況は激変。皆さんがかかわっているFX業者・株関係を見てほしい。積極的にコロナウィルスのために警戒しろ、取引は注意しろ、エントリーは少し待ったほうがいいなんて言う業者は皆無に近い。危ないときは「危ないよ、今はやめておきな」という業者はお客のことを本当に考えている業者だと思う。キャンペーンに「5000円バック」なんていう広告に踊らされてはいけない。その10倍、20倍のお金を吸い上げられる。それが株・FXの怖さだ。
「あのとき底値で買っていれば」とよく言われるが、タラレバの世界は、まさしくギャンブルの世界そのものだ。資金はあくまでもナイお金(必要ではないお金)を使うべし。
暖簾に腕押し [我が家]
2020.1.29
こんにちは。「家づくりは一回では成功しない」と散々書いているが、初めは「だから私は成功したんです」という成功体験を書けると思っていたが、世の中そうは甘くはなく、今回も決定的に失敗したと言っておきたい。写真もたっぷり撮っているし、書き始めた手前、最後まで頑張って書かなければいけないという義務的な問題にいつの間にかなってしまっている。
次の家を建てるため、自分のためにとやせ我慢をしてしまうが、むろん、そんな「次」の予定があるはずもない。まあ、気持ちはその次に、と言っておこう。
建築もある意味ではサービス産業、クレーム産業と言われる。建築士は夜遅くまで図面を書き直しとか、お客様の空いている時間に自分を合わせていかなければいけないとか・・・。ニッカボッカは履かないが、ある意味では3Kと言われる職場だともいえるかもしれない。したがって設計士は休みがあるようでないし、ないようである。いくら待っても客が来なければ仕事にならず、来れば来たでキャパを過ぎれば即パンクしてしまう。それはお客商売と全く同じことが起こっている。また、図面を解析する力、これがあるかないかで設計士の技量がわかる。図面を解析するとは、どういうことなのかというと、例えば、6畳の台所と8畳のリビングをつくるとき、台形の土地、土地面積は40坪、南は一番広い面としたときに、何通りの台所・リビングの家が建てられるか、どれだけの図面が引けるかということが,その設計士の技量になる。2パターンは最低基準。斬新的なデザインも含め、5通りぐらいは書けなければ、消費者の要望に応えられはしないと思う。
私たち素人はせいぜい2パターンぐらいだろう。玄人は2パターンでは臨機応変対応ができないということになる。私たちのいろんな要望、調理台は見えるほうがいい、対面キッチンがいい、天窓の差し込み先はリビングテーブルの真上に来るように、電気調理台(IH)いい、予備室もほしいなどなど、施主の要望は多種多様であり、それに対応できる間取りができるか否かで、大いにその結果に違いで出てくる。これはキャリアはもちろんだが、センスも十二分に必要で、一級だから、二級だからはあまり関係がない。あくまでもその方のセンス、日夜新しい情報を入れているかにかかってくる。
問題はここからだ。消費者のニーズに合わせることも大切だが、そのニーズを合わせるとこういうメリット、デメリットがあるという指摘ができるか、できないか、これによってその善し悪しが決定的になる。
家を建てるとき、施工メーカーなり、展示会場を重視するように、建築士の容量(技量・知識・見識判断)も重視しなければいけない。ここは最終的に最小で最大のポイントとなる。
生きているのがフ・シ・ギ・・・(6) [生活]
2020.1.29
こんにちは。昨夜の嵐がうそのように、あっという間に快晴となった。国会は相変わらずの逃げ口上を続ける国のトップとそれを許してしまっている野党、まあ、そういう野党にしてしまったのは、私たちの責任でもある・・・・というのが今の民主主義の考え方。そんなことは言っている暇は、もうそんなにないと思う。やはり人間は愚かだね。
----・----・----
・・・・続きです。
そんなわけで九死に一生を得た我々は、残りの学生生活を遅滞なく送ったが、なんのしこりもなく(正直、若干、私の中にはあったが大したシコリではない)卒業となったが、この件に関し、4人の中では一回も話題に登ることはなかった。それは無理にそれを避けているわけでもなく、ただ、何となく触れることはなかった。
今回の教訓として、私は下りの車は怖く、制御不能になるということを学んだ。それ以降、私は大きな事故をやったことはないが、そのときの教訓は今も生きていると思う。
しかし、彼には申し訳ないことをしたと思っている。彼とは、ミニカを運転していた彼のことだ。それ以降、彼はほとんど運転はしていない様子。車も持っていないようだった。それは彼の心の中に、多分大きな影を落としてしまったんだと思う。あのとき、冷たく断っていれば、そんな辛い経験をすることもなく過ごせていたのにと今も思っている。
あと警察官と車屋さんに言われたことがあった。我々は運転手を除き3人全員が外に弾き出されたわけだが、ほとんどの場合、弾き出された人間の上を車が追いかけ、ほとんどの場合、負傷または圧死する例が多いんだということだった。
本当にラッキーだったとしか言いようがない。
生きているのがフ・シ・ギ・・・・(5) [生活]
2020.1.28
こんばんは。今日はこれから千葉は集中豪雨が降るかもしれない。願わくは、排水の関係でまだまだ大雨は降ってほしくはないが、自然相手では無理は通らない。
----・----・----
・・・・・続きです。
東京に戻ってきてからやることは事故の後処理だ。未成年である我々は何の力を示すことはできず、ただ、親の後をついて回ることしかできなかった。
事故の報告を親にしたが、親は一括も私にはしなかった。ただ、その後の処理をしていくだけと考えていたようだった。当時、私の父親はかなりの激務だったようで、朝7時過ぎには家を出て、帰ってくるのは深夜であった。それは私が幼稚園のころからだった。だから、私は父親と一緒に夕食を食べたことがないし、私が起きる時間には既に家を出ていた。また、週末はご近所さんとの付き合いとか冠婚葬祭があり、家を留守にすることが多かった。そんな父と私との交わりは、幼少期から青年期まで、今の父親と子供のような濃密さでは全くなかった。その結果、私は父親とは全く馴染めず、運悪く夕食を一緒にする機会があろうものなら、沈黙しかなかったし、バツが悪くなるとテレビをつけ、テレビを緩衝地帯として極力父親とは話をせずに時間を費やしていることが多かった。
そんな忙しい父親ではあったが、事故を起こしたときは、2日間ほど時間を割いて、自分たちのために事故後の処理をしてくれた。
・警察への挨拶。
・事故現場の立会い。
・事故車の引上げ交渉。
・廃車処理と関係者への挨拶などなど。
特に車の処分に関しては、ご近所さんに車関係の方がおり、その方と父親は懇意にしていたということもあり、当然の流れとして、その方に相談した。その方は、私の様子を見て、車は大して破損はしていないだろうと踏んだようで、トラックを引き連れ、車を引き上げようと言ってきた。私は、それはちょっと・・・・というのが精一杯。東京からトラックと乗用車を2台連ねて現場に向かった。現場に着いた途端、その方が言った。「よく生きていたね。車、半分にペッタンコだ」確かに、我が愛車を見ると縦の長さは半分に、横幅も半分になっていた。自分でも、愛車を見た途端、あの日の雪の寒さとともに、その恐ろしさにブルッと身震いが出てしまった。帰り道、ロングボディのトラックに、ものの見事に潰れた車が鎮座しており、沿道の方のいい見せ物になってしまった。
ご近所さんの善意の申し出は、私たちにとっては大変心強かったし、助かりもした。当然、そのお礼というか、その方が被った出費に対してお支払いをしたとは思うが、子供の私にはわかる術もなかった。多忙な中、父はそれらすべてのことを遅滞なく、漏れなくやり、そして何事もないように、朝また仕事に向かっていった。
生きているのがフ・シ・ギ・・・・(4) [生活]
2020.1.28
こんばんは。
新型コロナウィルスで世界は大変なことになっている。先程も武漢に行っていないバスの運転者が罹患したと速報が入った。決定的な悲報は、武漢からの中国人ツアー客を2回乗せたということだ。これでヒトからヒトへは決定的なこととなった。ネズミを食用とする国民性は差別とか、偏見ではなく、ヒトを守る観点から大いにいただけない。うまけりゃいいという話ではない。
----・----・----
・・・・続き。
私たちは無言のまま坂道を歩いていった。雪は深々と降り続いていた。頭に積もった雪も、肩に積もった雪も、スニーカーの爪先に積もった雪も、ただ我々を黙って押しつぶしているかのように重く感じられてきたとき、誰かが「あっ」と叫んだ。振り向くと友人の一人が滑って仰向けに倒れていた。誰も彼に声をかける者はいなかった。みんな彼に目を向け、大丈夫なことを確認すると再び黙って歩き始めた。まだ、日中なのだろうけど空は真っ白、しかし何となくさっきより暗くなってきたような気がした。どこまで行っても民家一つなかった。聞こえる音は、我々の靴音とかすかな吐息のみだった。
気持ちが折れかかったとき、急に目の前に民家が現われた。思わず、私たちは民家に駆け寄りドアをたたいた。今思い出しても、どんな方だったのか全く記憶には残っていない。そして必死にお願いした。「すみません、電話をお借りできませんか?」多分、私は警察に電話をしたんだと思う。お礼を言って、100円を渡したような記憶がある。
そこが大体半分ぐらいであろうか。時間にして1~2時間経過しただろうか。そんな大事故を起こしたものだから、今何時だとか、何時間歩いたとか、お互いに確認する余裕すらなかった。アキレス腱の上から血が出ていたためか、流石にその近辺に痛みを感じ始めていたとき、やっと麓の駅近くにたどり着いた。そして派出所に転げ込んだ。正に転がり込んだと言うにふさわしく、衣服はびしょびしょ、疲れ切った様子から警察官はさっき110番をした人間だと理解していたようだった。
警官は2~3人いたようだった。それぞれ別室に呼ばれ、順次聞き取りが行われた。お互いの供述に違いがないかを調べているようだった。
そこからは何も覚えていない。どう帰ってきたのか。友人たちと何を話ながら青梅から東京までの長い時間を過ごしてきたのかは全く覚えていない。それは47年前という青春の甘酸っぱい思い出・・・・・・という話では片づけられない重い絶望的な時間の話だからかもしれない。
生きているのがフ・シ・ギ・・・(3) [生活]
2020.1.27
・・・・・続きです。
その光景は今でも脳裏に焼きついている。私は後ろ座席に座りながら、彼の運転に身を任せていた。次の瞬間、左手にある大岩が目の前に急に迫ってきた。そこまでの記憶はある。それが道を外れて落ちていくことだとは、直ぐには理解はできなかったが、自分たちが落ちていく先に茶色の大岩があった。林道にはガードレールもなかった。あったところで車がガードレールに引っかかるとも思えないが、車のスピードはかなり出てしまったんだと思う。雪、坂道、砂利道、初心者。この4条件が揃ったのが不幸な出来事の始まりであった。
私は岩から立ち上がり、体の具合を確かめた。左アキレス腱の上あたりに血がにじんでいたが、そのほかは別に痛みもなかった。ただ、精神的なダメージは大きかった。
右手の友人も、左手の友人も直ぐに立ち上がって、服に着いた雪を払いながら、体の安全を確かめているようだった。誰も声は上げなかった。いや、上げられなかったと言ったほうが当たっていたかもしれない。坂の一番下まで落ちいていったAを呼んでみた。「お~い、大丈夫か」「A、大丈夫か?」二人の友人も口々に叫んだ。
我々の落ちた場所と彼の落ちていった場所は、距離にして2~30mは離れており、我々は自分が地面に叩きつけられてから、下に落ちていくAをぼんやりと見ることができた。それほど時間的にも、距離的にも差があったということだ。翌日、現場検証があったのだけども、警察官が巻き尺で計ったところ、45mと叫んでいるのが聞こえた。大岩に落ちるまでが5m、それから坂の下までが40mということになる。落ち始めた地点から車の落ちたところまでをのぞき込むと、下までの距離は大いにあり、車が米粒のように見てとれた。
下まで落ちていったAと私と二人の友人の怪我は正にかすり傷だったことは奇跡としか言いようがないと大人は皆皆話していた。
雪は一向に止む気配はなかった。大雪で車から放り出されたため、かすり傷とはいえ、おでこを切ったり、打撲傷を負ったたり、私のように足を切った者もいた。しかし、皆黙って自分で自分の傷の処理をしていた。誰も運転している者を責めたりはしなかった。車は走り出して直ぐに落ちたものだから、徒歩で行く帰り道は偉く遠く感じられた。当然、傘なども持たず、痛んだ体と心を引きずりながら、日原鍾乳洞から麓の警察の派出所までみんなで歩き続けた。雪は靴にも入り込んで解けていった。帽子を被っているものもおらず、車の中に入っているシートやビニールの袋を頭に被り、ただ黙々と歩いていくのみであった。ぶざまな格好だったろうけど、そんなことに気を回している余裕は誰にもなかった。
生きているのがフ・シ・ギ・・・(2) [生活]
2020.1.27(続)
・・・・・ということで、日原鍾乳洞を目指し我々は黙々と進んでいった。
雪は少しだけ気になったが、鍾乳洞に着くとそんな不安はなくなった。少しだけ小降りになったということもあるが、鍾乳洞の中が見えるということに興味が集中していったと言ったほうが合っているかもしれない。若い我々は単純過ぎるといえば、単純過ぎた。
小一時間ほど探索をしただろうか。入場料もなく、人っ子一人いなかった。いるのは我々だけ。我々の声だけが鍾乳洞の中を響きわたった。日原鍾乳洞というぐらいであるからして、それはそれは立派な鍾乳洞であった。
鍾乳洞を出て、車のあるところに戻った。フロントグラスに張りついた雪を払い、車に乗った。来るときは道はすべて上りだった。当然、今度は下りになる。エンジンをかけた。暖房を切って一時間ほど経った車内は冷凍庫のようだった。暖房のスイッチを全開にした。車をスタートさせてしばらくするとAが言った。
A「おれに運転させてくれないか」
今回、出発したときにも、彼から運転させてくれと何度か言われていた。彼は免許をとって1週間。つまり、免許取り立てだった。市街地をいきなりはやめたほうがいいと皆が言った。彼も誰もいないところのほうが安心だと言う。「じゃ、山道になったらね」と言って断っていた。正直なところ、自分の車を他人に貸すということは、何となく釈然としないという気持ちと、親からは他人には貸すな。万が一のときに困るなどと言われていたことも断り続けた原因かもしれない。
しかし、ここに来て断り続けるのは忍びなかった。私も免許取り立てのころは、運転がしたくて、したくてしょうがなかった。だから、彼の気持ちは痛いほどよくわかった。
私「A君、いいよ。」と私は彼に運転を代わった。山道なら誰もいないし、人身事故にはならないだろうと、若者らしい、あさはかな考えがあった。
Aが運転席に座った。私は後部座席の彼が座っていたところに座った。
A「じゃ行くよ」
スターターが回った。エンストもなく、スムーズに車は走り出した。我が愛車はマニュアル車で、当時は、それが主流であった。だから「エンスト」(エンジンストップ)は初心者にとっては切っても切れないことであった。走り出して何分経ったであろうか。
気がつくと私は大岩の上で空を見ていた---一瞬、どうしたのかわからなかった。しばらくして、自分が車から放り投げられ、気を失って、岩の上に仰向けに倒れていたことに気がついた。
我に返った私は下を見た。つづら折りの坂を大きく左に外れ、坂を真っ逆さまに転げ落ちていく我が愛車のミニカ見えた。私の右側にはもう一人の学友が、左側にはもう一人の学友が、それぞれ木々の間に横たわっていた。運転していた彼はハンドルをしっかりと握ったまま、坂の最後まで車と一緒に転がっていった。
生きているのがフ・シ・ギ・・・・・。 [生活]
2020.1.27
こんばんは。
既に外は真っ暗。明日は雪だろうか。どんよりと暗く重い雲が一日中覆っていた。少しだけウキウキしてしまう私は、現役世代からみれば大変無礼者だ。しかし、ウキウキしてしまうほど、歓喜・苦渋を含め雪の思い出は多い。
これも大分前に書いたことだが、そのときは関係者のことも一応気にしていたので、余り多くを書かなかったが、今日は書いてみようかと思う。
----・----・----
それは春休みの4月1日。4月に入ったにもかかわらず、東京は結構寒さが厳しかった。
我々は春休みということもあり、みんなでドライブに行こうという話になった。あいにく車を持っているのは私だけであった。軽乗用車の三菱ミニカだ。大学生ということもあり、貧乏学生にとっては唯一の贅沢であった。今は性能がいいので、軽乗用車といっても侮れない。しかし、当時の軽自動車はクーラーはバッテリーの関係で付けられなかったし、窓もパワーウィンドウなるものは対象外であった。つまり、バッテリーに負荷がかかるものはすべて付けられなかった。それに馬力もたしか360㏄だったと思う。当時は本田N360とか、スバル360という車名があった。性能は今のものに比べたら大人と子供ぐらいの差があると思う。
そんなミニカで奥多摩に行こうという話になった。行きは今日のような曇天で少しだけ、雪がチラついていたと思う。しかし、若い私たちは、そんな雪を見ても、この先起ころうとしていることの重大さを予見できる者は一人としていないのも当然といえば当然かもしれない。それよりか、雪が降ってくることに妙に興奮しているような変な空気が漂っていることに誰一人気がついてはいなかった。
軽自動車に男4人が乗っていた。少しだけギュウギュウ詰め状態ではあったが、それなりにワイワイと楽しく時間を過ごしていた。出発したときはアラレと小雪が降っていたけれど、都心を抜けたあたりから雪の降り方は結構なものになっていった。東京には珍しくボタン雪となり、あっという間に舗装道路は白く変わり始めてきた。
山道に入った。カーナビなるものは当時はなかったので、地理に詳しい奴が地図を見ながらナビをして進んだ。
私「どこに行くんだっけ?」
A「日原鍾乳洞だ。結構寒いけど、鍾乳洞の中は温かいぜ」
私「そうか。それりゃいい。あとどれぐらいなんだ?」
A「林道に入ったから、あと五、六キロだと思うよ」
雪は益々激しくなってきた。ボタン雪は間断なく降り続け、目の前は真っ白にしか見えなくなったいった。しかし、誰一人として「もう戻らない?」と言う人間はいなかった。目の前の真っ白なる世界に引き込まれていくような、それが一番いいんだと思うような、そんな気持ちが我々の心を覆い尽くしてしまっていた。今から考えると車のチェーンも持っておらず、そのことを誰一人としてとがめる者もいなかったのは、そのことを十分に物語っていた。林道は段々と狭く、そして急勾配になって、ドンドンと登っていった。ギアはロウギアのみでセンコンドに入れるとエンストを起こしてしまうほど、坂の勾配は急峻になっていた。ふと気がつくと道は日光のイロハ坂のようにつづら折りにつながっていた。私は運転に必死となり、ただただ日原鍾乳洞を目指すしかなかった。
以前と少し違う日々 [生活]
2020.1.27
こんばんは。
日付が変わって27日。やはりパソコンは安定しない。そんなに気にもしないで済む程度だけど、それで良しとするかどうかは個人の判断。でも、Windows10にすることで、よかったこともある。確かに早く反応するようになった。Chromに引けをとらないくらいヤフーであっても早い。以前と同様にCMが入るが、画面で出るまでの間のストレスはない。Windows8は、そうではない。ちょっと待つね。CMが出てから画面が出るまで長いと5秒ぐらいは待つのではないだろうか。まあ、昔と比べると雲泥の開きがあるけど、人間は欲張りだから、少しでも早く、軽く、安くを目指す。本当はグーグルのwordを使いたいんだけど、親指シフトは反応してくれない--正確に言うと、するけれども変換できない字もある。つまり、使い物にはならないということだ。
----・----・----
正直なことを言うと、体調が戻らない。どういうことかというと腰痛が復活しそうだ。昨日、電車に乗って片道3時間、往復6時間。すべてを立っていたわけではない。その7割は座っていたのだが、腰に違和感が出ている。それは昨日からだ。しかもほんの少しの違和感が昨日まで、今日は腰掛けてから立つときとかに痛みがある。生まれてこの方、腰痛は2回ほどやった。まさにぎっくり腰なるものだ。しかし、2回とも養生をして直った。確実に直って、その後、再発したことはないし、その恐れを抱いたこともない。しかし、今回はちょっと違う。別に重いものを持ったわけではなく、電車で立っていただけなのに痛みが再び出てきてしまった。2カ月前ほどにやった腰痛の再発だが、その再発する原因がないことが気がかりだ。寄る年波という言葉で片づけられるのは老人としては辛いところで、そんなことで十把一絡げにはしてほしくないと妙に力む。脊椎狭窄症の大の親友は老人らしいが、そんな傾向は前回の検査ではなかった。
私の腰の痛みの原因は、老化から来ているのだろうか。
若い方には詰まらない話なのだが、私にとっては、次から次へと連鎖していくことに「少し違う日々」が自分の中に起こりつつあることに恐怖を感じてしまう。
でも、時は待ってくれないし、明日しなければならないもあり、着実にこなしていかなければならないことは多々ある。一つは音声認識をパソコンでやってみることだ。どれだけ使えるのか興味は前からあったが、今のところ生業として使えるのは皆無であった。あと我が家の建てた建築業者からも近々連絡が来るはず。また、おもしろい話ができるかもしれない。今は、どう転ぶかわからないので、とても言えない話だけれど・・・。
家づくりは一回では成功しない(83) [我が家]
2020.1.26
こんにちは。
昨日、横浜のほうまで行ってきた。薄めのコートで行こうと思っていたが、家人から「それは寒いよ」とたしなめられた。それで2年ぶりぐらいの登場のトミーのダウンを着ることにした。確かに行き交う多くの人はダウンを羽織っていたが、ダウンとマフラーとニット帽とマスクで電車に乗っていると汗をうっすらとかいてしまった。風もなかったせいか、そんなには寒くは感じない。多分、レインコートぐらいでも十分にオッケイの気温だった。やはり、1月の気温ではないね。
----・----・----
一昨年9月14日の現場です。
外壁タイルを貼るところです。
コーナーを最初に貼る。
ちょっとバックして撮ってみました。
四隅全部を先に貼り付けておりました。
その後に平らな壁面を貼り付けていく。
タイルの材質はこんな感じです。
今はこの手の色が多い気がします。
風通し、日当たりの具合でゴミ、カビ
は発生しやすいかもしれない。
日陰の立地なら絶対選ばない素材です。
遠目で見るとこんな感じ。
昔は1枚1枚貼っていることがあったらしいが、今はそんなことはない。1メートル四方ぐらいの板になっていて、それをジグソーみたいなに貼り合わせていく感じ。
より平らな面を見るとこんな感じになる。
それのアップです。
そしてまたまたアップのズームイン。
らしく生きる [生活]
2020.12.25
こんばんは。
今日は親戚の方のお見舞いに行ってきた。病は突然目の前に現われる。それは予告もなく、台本もない未知の世界だ。水泳の池江さんのことも、ちょっと時間が経てば皆忘れる。あんなに涙した人もいたのに・・・・・・まあ、そんなもんです。苦しいのがわかるのは、本当に自分だけ。本人は別に同情してほしくはないし、見せ掛けだけの同情は本人に失礼というものだ。
----・-----・----
「らしく」生きることは難しい。
どんなときでも「らしく」生きる、それは格好の悪いことかもしれない。
若いときは「らしく」なんて生きられない。あの人のように、あのタレントのように、あの歌手のように・・・・・・みんなみんな、そう自分を化粧させて生きていく。自分が確立されていないし、自信がないから他人の着ぐるみを着てみたいと思う。それが青春、青春の特権だ。中年のおじさんが、それをやったら、ただの馬鹿丸出し。
でも、「らしく」生きるは大切なこと。それをいち早く見つけた人こそ、それだけ早く自分の生きる道を見つけられる。「らしさ」は自分を真正面から見ること、それは辛いことであり、怖いことであり、見たくないこと。
それを真っ正直に見る。自分を見つめる。それが人生においては大切なこと。
格好付けることは青春だけど、青春だけでは一生は終われない。
一日も早く「らしく」を見つける。それが人生であり、生きていくべき意味になる。
自分は「らしく」に気がつくのが遅過ぎた。
家づくりは一回では成功しない(82) [我が家]
2020.1.24
こんばんは。
今日もいろいろあった。手紙を出した。ある人に出した。これで決まらなければ、私の負けとなる。
AIによる音声反訳が出たと2社から発表があった。20年前なら、これは私たちにとっては死活問題。天地がひっくり返るぐらい大変なことだが、運良く、人生の全盛期を過ぎていたので路頭に迷わずに済みそうだ。愚息二人は私立大学で下宿。バイトはするなと小遣いをわたし、一人の愚息はあろうことか1年留年。一瞬ではあったが、親二人でせっせと稼ぎ続け、年収はやっとのこと大台に乗った。そうでもしないと家を売り払わなければやり繰りができないところまで追い詰められていた。多分、近々に私たちがやっていた職業はなくなる。時代の流れは思いの外早い。
----・----・----
一昨年9月14日の現場です。
昨日同様、サッシ下縁のものはなんぞや。
ここも同様途中まで引いてある。
やっとわかった。
外壁のボードを支える金具。
なるほど、それで合点がいった。
外壁を入れたことで縁金具ともどもすっきり納まった。
コーナーもすっきり。歪みもない。
しかし、こういう石材だと汚れは入り込み、早く汚れが目立ってしまう可能性もある。
家づくりは一回では成功しない(81) [我が家]
2020.1.23
こんばんは。
こんなことでストレスを溜めてはいられないね、と思うことが生きていく上では多い。
家を新築してから早1年を経過。家周り(水はけ)は進捗がないに等しい。台風・オリンピック・消費税の影響での人手不足は確かに理解できるが、それまでにメーカー側に寄り添い、斟酌しているほど、私はお人好しではない。
組織にいるときにもいろいろとストレスはあった。上司の言い方、求め方に、どういう意味なのかとか、どのような対処すればいいとか考えあぐねたこともあったが、今回のように眠れなくなるほど悩んだことはない。いや、今回は悩んだというよりは怒りが納まらなくなったといったほうがいい。しかし、このような怒り(ストレス)はからだには結構打撃となる。それが原因でガンを発症したり、うつになったり、情緒不安定になったりする方もいると聞く。
25年以上前になるが、私はリストラをされた。大分前にも書いたことだが、それまでは帰る店はあったが、あるときから「おまえの帰る店はない」と告げられた。それは理由もなく、噂が先行し、その後辞令での周知となった。「噂」から聞こえてくるリストラ宣言は、ボディブローのように鈍な私にも結構に効いたのを覚えている。1年間自分のいる席はなくなり、千葉県内の店を絶えず回され続けた。その存在は、どこに行っても空気のような存在であった。つまり、「いても」「いなくても」いい。そんな状態を微妙なバランスで続けさせられていた。当然、怒りは絶えず沸き続けるが、それを表には出さず、ただ淡々と仕事をこなすことだと自分は理解するに至っていた。
1年が経過した。社内における空気のような存在が解かれた。1週間後、「○×の店の所属になれ」と言われた。
自分は即断した。「辞めます。この会社を退社します」と偶然居合わせたその店の上司に告げた。上司は目を見開いた。自分の意志は固く決まっていた。
・・・・・・まあ、こんなことを書くつもりは全くなかったんだけど、人間はいろいろなストレスで知らず知らずに病に犯されていんだなと思ったので、ついね。あと、身内にもガンを宣告された人がいたんで、ついね。その点、私は鈍だからね。そんなことにも負けずに、腰痛とか、肩痛で今のところは納まっている。
-----・----・----
昨年じゃなかった、一昨年の9月14日の現場です。
前回同様、サッシ下の金具を写してみました。
これも同様です。下の縁に四角く出っ張りがついています。
これはまだみたいです。
ここもまだ取り付けられていない。