理想と現実 [生活]
2018.10.22
急に思い出したので、再び、少しだけ記載したい。
【目標を持て、ぶれるなと言うけれど・・・・・】
現役の若者にとっては、毎日の仕事をこなすだけで精一杯だろう。そこには崇高な目標も、将来自分のあるべき姿など思い浮かぶはずもなく、今日、上司から言われた課題の意味を「ああだ、こうだ」と思いを馳せて一日が終わっていく。それが現実だと思う。十分理解している。それが自分そのものだったから十分に理解できる。
流されることは簡単だ。言い訳することも簡単だ。逃げ出すことも簡単だ。ただ、難しいことをやりたくないだけなのかもしれない。忙しい自分がそこにいるから、それで十分、それだけで十分な理由になる。
しかし、10年後の自分を想像しているか、20年後の自分を想像しているか。65歳になり、リタイヤした親の姿を自分に当てはめて見たことはあるのか。
親と同じ結末にはなりたくないと思っている人間がどれだけいるだろう。そうならないためには何をどう変えれば、自分をどう変えれば、今の航路を外れ、目標に向かっていけるのか。
若者は、常に考える葦でなければいけない。
懲りないナショナリズム [新聞記事]
2018.10.22
こんばんは。
今日は午前中看護師さんが来、ヘルパーさんはお休み、夕方は2週間に一度の入浴の為、ほぼ一日母の家にいたことになる。これも宿命、これも運命。しかし、楽しんでやっていると言うほど人間はできていないが、悲壮感はなく、淡々と彼女の老いを見つめられているのは、介護制度のおかげでほどよい距離感があるからだろう。
なかなか決まらない外溝案を業者の方にメール送信した。タイルの状態は実物を見てもらうのが一番だから、どこかで見たものを写真撮りして添付送信し、ピンコロ石は捨て難かったので、それでお願いしたいと伝えた。
タイルの感じはこれ
ピンコロはこんな感じ。
とはいえ、敷地はこんなに広くはなく、石畳のこの流れる感じが出るわけは絶対ない。
しかし、コンクリートの打ちっぱなしはいただけないのも事実。
お金もかかるが、何とかできる案はないかと模索中。
業者の方は、割と安全パイを引く方のようで、余り前向きではないのが気がかり。彼の気持ちに巻き込まれることなく、いい方法をこちらで見つけていきたい。
家づくりをする上で、注意をしなければいけないことは、業者の方は方法論では素人の自分たちより長けてはいるが、決してオールマイティではない。自分のやりやすい方法、自社に利益である方法を選びがちだ。
やる気満々の若手の営業マンなら、それがもろに出てくるから、素人の我々は自然と後ろに下がってしまうことは、皆皆よく経験をすることが多いと思う。
また、知識は我々より豊富かというと、決してそうではないことに注意をしなければいけない。ネット全盛の今、知識は素人側でも彼ら以上に蓄積できる。それが施工可能かどうかは別問題として、まず知識では玄人と素人の差は幾らでも縮められる。知識を彼らに頼るととんでもないことになる。
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(話は全く変わって・・・・)
韓国の方々のナショナリズムには、コリゴリすることがまたあった。今回は徴用工の問題だ。慰安婦にしても、この徴用工にしても、既に過去の話だ。
徴用工は戦争中に、不当な条件で、不当に働かされたからと訴訟を起こしている事件だ。そして、今回、それが韓国の最高裁で判決が出るから急激にヒートアップしている。
確かに戦時下では、いろいろなことが起こる。お互い、それは法的に違反しているからやらないとか、法的に守られているからやったと---戦争自体違法行為なのだから、そんなことを言うこと自体が既に大外れだと思うが--基準を持って行動している余裕などあるはずもなく、それはお互いさまだろうと思う。もちろん、今の平時にそれを言うと「違法なことをおまえは認めるのか」というお言葉を頂戴することになる。つまり、戦時下では、平時の法規範・道徳規範はあってもないに等しい。
それは互いにわかっているから、真珠湾に関して言えば、その遺族に遺品を渡したいといって、その子どもや孫たちが会いに、それぞれの国を訪れ、お互いの健康とお互いの立ち位置を尊重し合うわけで、それが通常の人間らしい感覚だ。
しかし、韓国の方々は、そうではない。国家間で終結協定を結ぼうが、個人間ではまだ終結はしていないとばかりに、それを蒸し返してくる。過去の遺恨を蒸し返し、それに見合うか見合わないかはわからない「果実」を得ることで、何の達成感が、相手への理解が得られるのだろうか。そこには何も得るものはない。「あいつらが、あいつらが・・・・」という憎しみだけが新たに残るだけ・・・・・・・・・・・・・・だと思う。
慰安婦のことでも、今回の徴用工のことでも、彼らが仮に希望どおりのもの得たとしても、彼らと私たち日本人との間に「和解」という二文字はどこにも滲み出てこないだろう。真の平和とは、我を通して「果実」を得ることではなく、お互いに理解し合い、尊重し合うことだといつ気がつくのだろうか。