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行ってきました、埼玉アリーナ! [生活]

2018.6.27


風がやまないですね、こんにちは。


昨日、埼玉アリーナに行ってきました。

前云々回、散々ネガティブ小田和正を書いてしまいまして、これか続くようだったら、もうコンサートには行かないことしようかと思って、腹をくくって聞きに行ってきました。


私は同性の人間として、彼の生き方には賛同していて、短小軽薄な芸能界にあって、ぶれない自分を70歳まで保っていることは、まさに尊敬の念に値すると思っています。


では、今回のコンサートはどうだったの?あなたのお目にかなったの?


 

・・・・・・ということですが、その原因が少しだけわかったような気がします。


もちろん、彼に直接聞いたわけでもないですし、知ったかをしてしまっては、彼に対して不遜そのものになってしまうので、そこはちょっとだけ躊躇してしまいますね。


70歳を超したときに、幾重にも張りめぐらされた花道を3時間の間に20周ぐらいは走ったり、歩いたりして歌っている彼を見るにつけ、そんなことは遠く私にはできないと思います。ましてや全国を38公演をやるわけで、平々凡々の毎日の生活でも辟易している私とは比べものにならないというか、比べるのも「悪い冗談!」と言われてしまいそうです。


でも、少しだけ、今回わかったような気がするので、これは備忘録(自分だけで誰の目に触れない)というつもりで書いておきたいと思います。


今回、公演直前の大阪で地震があり、公演は来年に延期されてしまいました

そのこともあってか、彼は頗る気合が入っておりました。それはオープンニング直後の歌にもはっきりと出ておりまして、3~4年前のはっきりした歌い方を私たちに思い出させてくれるような歌い方でありました。


「はっきりした歌い方?」、「ロレツ回らないの、彼は?」

と言われそうですが、ロレツ?もちろん、そんなことはありません。はっきり歌詞は発してはいるのですが、いい意味で流れるように言葉を発する。区切って歌わない、ということです。



彼は小節を回す歌い方が嫌いです



というとまた語弊というか、クレームを言われてしまいそうなので補足しますが、

彼の歌を聞いているとよくわかるのです。音を伸ばさない、区切って歌うのです


例えば、細川たかし「北酒場」です。「北の~~~~~、酒場通りには~~~~~」

と伸ばします。それがデビューのころと比べるとだんだん長くなっている


小田さんの歌い方には、それは存在しません。

多少はあります。音楽ですから伸ばして聞かせるところはもちろんあります

しかし、声を聞いていると、そんなに長くは伸ばしません。伸ばすのは「さよなら」の最後ぐらいでしょうか。


【ピアノソロ】

彼はよくピアノのソロに近い状態に歌う曲が何曲かあります。CMでもよく流れる曲もありますね。

言葉にできない」、「愛になる」でしょうか。


今回は、そのほかにも「さよなら」とか「東京の空」をやりました。


ここで彼の変化がありました。これは前回のときと同じです。何か先を急ぐような、ここはもう半音符止めてから、ここも一息入れからと思うところが何カ所かありました。家人はわからなかったと言っていましたが、「さよなら」のときにギターの稲葉さん(ギターリスト)がちょっと変わった仕種をしました。


「さよなら」は途中で稲葉さんのギターと小田さんのピアノが混じり合いながら音を出し合うのですが、今回、それがうまくかみ合わなかった。


そこで稲葉さんは、多分、あの仕種をしたと思うんです。


それは指揮者のようにイチ・・ニイ・・サン・・シと楽団のメンバーに人指し指を振ったのです。




これは小田さんの気持ちの問題で・・・・・どこかせっつかれるような・・・・・・・訳のわからぬ何かが後ろを押しているのではと思ってしまうわけです。



それは決して、聞いていて不快なものでもありませんし、曲全体の雰囲気を壊すものではありません。ほとんどの方はスルーしていたと思います


そんな詰まらぬ感想を書きつつ、次回は、8月の武蔵野の森までお預けです。

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このままでは、放任主義となる [新聞記事]

2018.6.27


おはようございます。

今日はうだるような暑さです。風もかなり強い。


風を強い日にはいつも思い出すことがある

それは洗濯物。ベランダに洗濯物を出すのだが、気をつけてはいても、とてつもない強い風のときは吹っ飛ばされる。一度下着を飛ばされたことがあった


下着は女性はもちろんだが、誰も関心を示さない、どうでもいい自分のものであっても、少しだけ恥じらいを感じるものだと、そのときわかった。


多分、隣家のご主人が拾って、塀のところにかけておいてくれたらしいが、いやはや全くの失笑ものであった


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放任主義というと、家庭の躾のことだと誰もが思う。

今日は、その放任主義といっても国の放任主義についてです。


・政務活動費、・加計、・森友、・公文書書き換え、・セクハラ容認発言。

(これ以前のことは忘れてしまった)


責任をとらない政治が無関心を想起させ、無力感を掘り起こす。

 

我々国民はうんざりで、テレビでそのニュースを取り上げていると、きっと多くの方々はチャンネルを変える。


「またか!」と言って忘れ去ろうとする。これは国家への放任主義だろう。


しかし、前3つのことはすべて我々が支払ったれ税金で賄われていることは確かであり、それでも責任をとらない彼らは一体何様なんだと思ってしまう--こういう物の言い方をすると大体みんな引いていく。


どうでもいいじゃん。自分たちの生活にはとりあえず影響はない。それより、今日の昼飯のほうが自分にとっては関心事。「何、偉そうぶって書いているんだ」、「勝手に言わせておけ」。


しかし、18歳になったら選挙権があり、選挙はしなければいけない国民の義務。


学校のテスト勉強のように一夜漬け状態の投票行動。投票所に行って、目の前のボードを睨み「えい、やー!」と適当に名前を書く?

投票所に行くだけ懸命だけれど、多くの人たちは「棄権」という選択肢を選ぶ。


最近の投票率は一体幾らなんだろう。

投票率40%なんて高いほうで、40%だとしても残りの60%の方々は権利放棄している。


これでは我々の総意は反映されていない。

一部の権益団体だったり、党員だったりの組織票の総意がそこには反映されていく。


この放任主義的な民主主義を何とかしなければいけないと常々思ってしまう。

国の躾は国民--つまり我々ひとりひとりがやっていくしか道はないのです。


 

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