地震関連でもう一つのことを思い出した。 [生活]
2018.1.22
千葉にもやっと雪が降ってきた。降っては止み、降っては止みの繰り返しだが、東京の八王子、渋谷はかなり降り始めているようだ。先程、明日の介護は遅れるかもとの連絡が入ってきた。あまり降雪が多い場合は、私が母の介護をしなければいけない。何も文句は言わない母だが、おむつ交換、空腹はやはり適時満たしてやらなければいけない。
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我が家の近くに震災直前に引っ越して行った家があった。
当時、両隣の方、お向かえさんに一言の挨拶もなかったと向こう3軒、両隣の方々が文句を言っていたのを覚えている。この地に住んでから20年以上も生活していた方で、ご主人の定年とともに、生まれ育ったところに戻りたいというお気持ちになったらしい。喧嘩をしていたわけでもなかったようだが、挨拶の一言もなかったというのは、なかなか理解しがたいものがある。
瞬きと同時に瞬間移動できるわけでもないだろうに、「あらっ、お引っ越し?」とか、「どうなさったの?」とか、まあ、そこはよくわからないが、人間関係なんてそんな希薄なものかもしれない。
お互いさまといえば、それもありなんだけど、「立つ鳥跡を濁さず」という諺もあろうに。
その彼らの移った先というのが福島であった。その具体的な行き先は不明であるが、寄りにもよって地震当該県であった。地震発生の6カ月ほど前だった記憶がある。寒くもなく、暑くもない日に引っ越されたようであった。
向こう3軒、両隣の1軒の方は、「いいきみだ」とおっしゃっていた。
ちょっとぞっとしたが、その方の正直な気持ちであったに違いない。
「一寸先は闇」---肝に銘じよう!
やっとパソコンの前に座る気になった・・・・かも。 [生活]
2018.1.22
ちょっと無理をしていた。微熱が続いていて、18日に無理にパソコンに座っていたが吐き気がした。その後の微熱が続く。次の日には完治に近い状態でF林業の打ち合わせにも行ってきた。もう一人の私の愚息も元気そうだ。
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テレビで東北の話をしていた。ふと思い出す東北・福島。
両親の生まれは東北だが、自分は東京育ち。長い夏休みは大概母親の実家の喜多方で過ごしていた。子供心に夏休みのほとんどを福島で生活していたような記憶しかない。だから、余り暑い東京を知らない。
今日はそんな幼いときの話ではなく、成人し、社会人として進み始めたときの話。
ひょんなことから社会人になった。多くを考えずにいい加減であった私は、深い考慮もせずに家の近くの会社に入ることになった。そこの社長が来てくれと言われて行ったわけだが、学生である私の実力がどのぐらいなのか、十分調べもせずに招聘したところを見ると大した社長ではなかった。
事実、3年後には倒産した。
彼(社長)は私たちの仲人を務めた。
そんな会社であっても支社があった。それは東北・福島の浜通りあたりだ。
一度しか行ったことはなかったが、そこそこ隆盛をきわめていたときに設立したもので、それなりに大きくしっかりした支社であった。
従業員はどのぐらいいたのだろうか。少なくとも2~30人はいたと思う。みんな、それぞれ家庭があり、生活の糧をこの会社に託して一生懸命働いていた。
この会社は二代目だった。魔の二代目だ。二代目を何とか潜り切れば三代目で再構築、というのが世間相場であり、このときも二代目の放蕩、放蕩と言っても遊んでの放蕩ではなく、経営的な放蕩によって多くの社財、初代が築き上げた社財を棄損し続けた。
ボンボン育ちの彼は、その時々の実入りに合った生活ができない人間であった。
初代は立派な方だったようで、父からもその話は聞かされていた。
質実剛健であり、質素倹約を絵に描いたような方であったらしい。
そんな初代が築き上げた財産を切り崩し続けていた。
私は経理を担当していた。おかげさまで、よく物の流れと金の流れがわかってしまった。
営業部長の積年の不正もわかった。
2011年、その会社は既になくなっていたが、地震発生当時、その工場があったなら、それは跡形もなくなっていたに違いない。
工場はなくなってしまったが、そこの勤めていた従業員の方はまだ健在であるはずで、多分、ほとんどの方はそのまま浜通り近辺に居住をされたいたのだと思う。
その方々は生き延びられたのだろうか。
今となっては知るよしもないが、生きていく重みを少しも感ぜずに生き続けている自分を思うにつけ、複雑な感情が沸き起こってくる。
今を変えようと深く思う。