日本には国家的アイデンティティはあるのか [生活]
2017.9.29
午後には墓参りに行こう。
政権交代があるのか、ないのか、どうでもいいような気持ちではあったが、ふと「アイデンティティがないと、あの問題はどうなるん?」と思ってしまったので書くことにする。
例えば、原発・・・・
例えば、アベノミクス・・・・・
アイデンティティが国家として定まっていないことには、これは大きな禍根となるかもしれない。
これは政党が違うから変えるという感覚では困る問題で、国家として、日本国民として、どう考えていくか、国会議員の党利党略、私利私欲的な感覚で決するものではない。
政権が代わると原発再稼働、政権がまた代わると原発廃止。これでは、国民はたまったものではないし、原発は、そんな簡単なものではないことは皆さんご承知のとおり。
あれだけの大きな災害があっても行政及び政府内でのコンセンサスがあるだけで、それを「日本として、どうしよう」と意見を募る場をつくらないのは、国民としてかなり迷惑な話だ。
国民投票的な広い意見の吸い上げをもって、政党としてではなく、「日本として、こうやっていこう」ということを示していくべきだと思う。
そういう意見公告は、残念ながら見たことも聞いたこともない。
政治家はもう少し真面目に事を構えるべきだと思う。
大失態をした [父の話]
2017.9.29
すごいいい天気だ。仕事はまだ終わらない。でも・・・・・。
忘れていた。直近まで覚えていたのだけれど、11年目の大失態だ。
それも夫婦二人で忘れていたのだから、どうしようもない。
何のことだ?
親父の命日。11年前の9月28日に彼は亡くなった。2回の梗塞を患い93歳で亡くなった。
私と違い、人の悪口を言う人ではなかった。
小学校しか出ていなかったのに、なぜか人望は厚く、物知りであった。
寿命と言えば寿命だが、彼としては屈辱の日々を20年近く過ごした。
最後まで意識はしっかりとし、私たちの私的(暗中模索的)な介護に文句も言わずに付き合ってくれた。
今は情報も多く、何でもレンタルでき、経済的にも精神的にも負担はかなり軽減されつつあるが、当時は車椅子も、介護事業所も、訪問入浴も、訪問医もすべて自分で調達しなければならず、ケアマネもいたにはいたが、介護申請のときに顔をみせたぐらいで、その存在すら意識したことはなく、全く役に立ってはいなかった。
11年前もいい天気で、蒸し暑い日が続いていたが、家人がポジテシィブな性格ということもあり、二人で楽しく介護をしていたし、来客も多く、お茶会をよくしていた。
そんな二人を見てか、先生からは「いつ行っても不思議はありませんよ。覚悟はしておいてください」と釘を刺されたりしたのを思い出す。
そして、彼の時間は止まった。
過ぎ行く時は早く、無情にも思い出を置き去った。