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偶然と必然 [生活]

2019.11.24

こんばんは。

今日は三越本店に行ってきた。喪中葉書を出したところ、現金書留で「お悔やみ」をいただいてしまった。お返しはしないようにという趣旨の手紙をいただいたが、「はい。そうですね」というわけにもいかず、ゴディバのチョコレートを送ることにした。私自身、仕事仲間で知っている人もいるが、直接的には知らない方もいたので、ちょっと戸惑ったが、もらってうれしいだろうという勝手な思いでチョコレートを送ることにした。


百貨店の衰退というニュースの中でも、さすがに老舗百貨店ということもあり、お客は結構入っていた。いつも百貨店に行くとお客より店員のほうが多いのだが、ゴルフ売り場以外は大体お客のほうが多くいたので、少しほっとした。いつも高島屋とか三越に行くと気が張るというか、結構、馬鹿丁寧さに失笑することも多い百貨店だが、今日は駐車場の誘導員から店の店員まで、不快感を抱かなかったのは珍しい出来事であった。マルニの家具、マリメッコのカーテン、ペルシャジュータンと久々目の保養をしてきた。しかし、150万円以上するペルシャ・ジュータン、これを買う人もいるんだなと思うと驚きしかない。あるところにはあるんだね。


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ある方が「必然と偶然」の話をしていた。どんな脈絡かは全く思い出さないが、対比を好む私としては、やはり引っかかるワードであった。

自分の過ごしていく時間の中で---本当は「自分の人生の中で」と言ってしまいたいんだけど、そういう言葉はちょっと固いので、あえて「自分の過ごしていく時間」としておいた---偶然にかけるか、必然にかけるか。果たしてどっちかという問いだ。これは難しい。自分は果たしてどっちだったのか、どっちが多かったのか、どっちを期待していたのか。これは多分、「偶然」なんだと思う。所詮、私はぐうたらな人間だから、これだけ努力したんだから、こうなるのは必然でしょうという言い切りはできるわけもなく、ただ、何となく、そうなったんだという結論しか導き出せない。しかし、いま目の前にある現実が偶然なのか、必然なのかを考えることは大事なことだ。つまり、その結果は自分の努力の結果なのか、棚ぼた的な結果で得られた偶然なのかの検証はやるべきことだと思う。

我々凡人は、なかなか自分を省みることをしない。時間がないからなのか、面倒臭いからなのかはわからないが、あまり積極的に省みることはしない。だから進歩の二文字は獲得できない。ただ、漫然とその結果を見て過ぎ去ろうとする。それが自分の人生で大切なターニングになったとしても、気がつかないで通り過ぎてしまうことはままあることだ。つまり、そのこと自体が自分の進路を見誤る、決定的チャンスを見失うということなのだ。しかし、見過ごしたとしても、誰からもとがめられるわけではなく、ただ、自分のチャンスの芽を潰してしまうだけだ。誰からも責められない。

人生は過酷だ。自分のターニングポイントは自分でしかわからないし、自分一人で責任を持つものだ。だから、「偶然」に頼ってばかりではいけない。いつも周りにアンテナを張りめぐらし、「必然」を確実に手元に引き寄せる意識していないと、せっかくのチャンスを見逃すことになる。

そのチャンスは誰にでもある。高校しか出ていない人でも、大学を6年で卒業した人でも、裕福な家庭に育とうとも、貧しい家庭で育とうとも、片親のもとで育とうとも、両親のもとで育とうとも、皆それは平等にあらわれる。

問題はそれに気がつくかつかないかだ。それをキャッチする触覚は自分で研ぎ澄ましておかなければいけない。その研ぎ澄まし方は、いつも自分の側にあり、相手には何もない。つまり、責任はいつも自分の側にあって、他人には全くないということだ。

詰まらぬことを記していたら越日になってしまった。自分の腰痛もようやく回復した様子。明日からはまた、「必然」を求めて、自分を磨いていかなければ生まれてきた意味がないというものだ。


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