このままでは、放任主義となる [新聞記事]
2018.6.27
おはようございます。
今日はうだるような暑さです。風もかなり強い。
風を強い日にはいつも思い出すことがある。
それは洗濯物。ベランダに洗濯物を出すのだが、気をつけてはいても、とてつもない強い風のときは吹っ飛ばされる。一度下着を飛ばされたことがあった。
下着は女性はもちろんだが、誰も関心を示さない、どうでもいい自分のものであっても、少しだけ恥じらいを感じるものだと、そのときわかった。
多分、隣家のご主人が拾って、塀のところにかけておいてくれたらしいが、いやはや全くの失笑ものであった。
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放任主義というと、家庭の躾のことだと誰もが思う。
今日は、その放任主義といっても国の放任主義についてです。
・政務活動費、・加計、・森友、・公文書書き換え、・セクハラ容認発言。
(これ以前のことは忘れてしまった)
責任をとらない政治が無関心を想起させ、無力感を掘り起こす。
我々国民はうんざりで、テレビでそのニュースを取り上げていると、きっと多くの方々はチャンネルを変える。
「またか!」と言って忘れ去ろうとする。これは国家への放任主義だろう。
しかし、前3つのことはすべて我々が支払ったれ税金で賄われていることは確かであり、それでも責任をとらない彼らは一体何様なんだと思ってしまう--こういう物の言い方をすると大体みんな引いていく。
どうでもいいじゃん。自分たちの生活にはとりあえず影響はない。それより、今日の昼飯のほうが自分にとっては関心事。「何、偉そうぶって書いているんだ」、「勝手に言わせておけ」。
しかし、18歳になったら選挙権があり、選挙はしなければいけない国民の義務。
学校のテスト勉強のように一夜漬け状態の投票行動。投票所に行って、目の前のボードを睨み「えい、やー!」と適当に名前を書く?
投票所に行くだけ懸命だけれど、多くの人たちは「棄権」という選択肢を選ぶ。
最近の投票率は一体幾らなんだろう。
投票率40%なんて高いほうで、40%だとしても残りの60%の方々は権利放棄している。
これでは我々の総意は反映されていない。
一部の権益団体だったり、党員だったりの組織票の総意がそこには反映されていく。
この放任主義的な民主主義を何とかしなければいけないと常々思ってしまう。
国の躾は国民--つまり我々ひとりひとりがやっていくしか道はないのです。
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