怒りを忘れてはいないか [生活]
2018.6.25
こんばんは。
「正月は冥土の旅の一里塚」と歌った歌があったことを思い出した。
人間は皆生き出でた瞬間から死に向かって歩き出す。正月はめでたいが、同時に死に向かって止められぬ歩みを続けていく。
母よりも遅く不自由になり、寝たきりになった人が、その順番を破って先に次の世界に歩んでいく。
そんなことが続くと、寿命とは一体何なんだと思ってしまう。
その母親も独りきりの部屋で、何を考えるのか、じっと天井を見ているときがある。
決して楽しくはないことは、誰の目からも明らかだ。
人生の最期で楽しいという人に出会ったことは未だない。
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最近、ふと自分の中にイカリという文字が浮かんでこないことがある。
新聞記事を読んでも、「ふ~~ん、そうか」で終わってしまうことがある。
木で鼻をくくったような答弁をしても、「ふ~~ん、そういうことか」で終わってしまう自分がいる。
若いころ、何でおまえは、いつも、そう怒ってばかりいるのか」
「いつもおまえはマイナス思考だな」
「そんな斜めに見なくてもいいんじゃない?」
と言われ続けてきていた。
しかし、それは自分の性分だから、社会人になってからは、ますますその傾向は強くなった。
怒りをもって話をすることは、人の悪口を言うことと隣り合わせ的なことが多い。
だからというわけではないが、少しそれは抑えている自分もあった。
しかし、総じて物事に対しては批判的な考えが、自分の頭の中では大多数を占めていた。
最近の自分を顧みると、「ふ~~ん、そうなのか。そうだよね。よくあることさ。そんなに怒りは沸いてこないよ」的な考えをしているようで、愕然とすることがある。
だから、何も改善が生まれない。こうすればいい。こうやれば、もっとうまくできるはず、という考えが浮かばない。
これは年をとったせいか、体力が弱ったせいか、気力が萎えてきているせいか。それは今はまだわからない。
でも、この気持ちの延長線上には、何も起こらないし、新しい発想は浮かばないだろう。
これではいけない。
絶対にいけない。
怒りは・・・・・・
明日への力になる。
明日への希望となる。
明日への夢となる。
明日への光となる。
そして、人生の最期を迎え、ふと後ろを振り返ったとき、きっと後悔しない自分がそこにいると固く信じている。
妥協を仕舞い、怒りを出そう。
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