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親父の判断と子どもの判断--親としての最後の仕事 [生活]

2017.7.7


外は快晴だ。当然ながら天の川は見えない。昔はこの地でも十分に星は見えたし、流れ星も見えた。少しだけ南に下れば天の川も見えた。そんなきれいな空を我々は捨ててしまった。天の川が見えなくたって、星空が見えなくたって少しも生活には困らないぜ・・・・・・・という人間のエゴのために。


年上の判断はいつも面白みがない。特に親父の判断は絶対に従ってやるものかと思う方々は多い。なぜか素直になれない。私もそうだった。


それはなぜだろう?


それは自分の未知なる可能性を否定されていると感じているからだろう


この子は、自分の子どもだし、学校の成績もこんなもんだから、きっとこのぐらいにしかなれない。無心に努力するほうでもないし、集中力もない・・・・。と父親は判断する。しかし、これは大方は当たっている。

それは同じ遺伝子を持っているから、何となくその子の未来が見えるんだろう


しかし、それはあと10%ぐらいは違う可能性を残している。子どもは、その10%に掛けたいと父親に懇願する。父親はその10%は、残りの90%を完遂させるより難しいと思っているから、そう簡単にはオッケイしない。


父親のやらせたい90%は子どものやりたくない10%であり、父親のやらせたくない10%は、子どものやりたい90%である。


人間は誰しも経験値で判断をする。これはほぼ人類共通の考え方だ。この先を右に行くとこうなる。それは10年前にそうだったから。左に曲がるとこうなる。それは5年前に経験したから。


「ほら、そうだろう 言ったとおりだ」となる。


これは親であっても、子どもであっても同じこと。子どもは、自分よりも年が若い十代とか、二十代とかの若い人に対しては、親と同じようなことを言う。もちろん、言い方は年上の親のほうがうまいに違いないが、二十代は二十代なりの言い方で、三十代は三十代なりの言い方で説得する。


しかし、ここから先の未体験ゾーンは経験がないからわからない。「だろう」、「じゃないか」、「きっとそうに違いない」「あついにできるんなら、俺にだってできる」と考え挑戦する。


挑戦だから、失敗もあるし、成功もある。ほんの少しの成功にかけたくなる。それが青春、それが人生という考え方に親は渋々納得する。


あとは3回の表裏が終わり、敗戦濃厚となったとき、新しい道をどう示してあげられるか。それが親として最後の仕事になる。

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